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パラグアイ

1811年、スペインから独立したラプラタ地方の国。

 南アメリカの中央部、ラプラタ川上流にあり、ほぼ北をブラジル、南をアルゼンチン、東をボリビアに囲まれている。現在の首都はアスンシオン。スペイン植民地のラプラタ副王領に含まれていた。1810年に本国のスペインがナポレオンに征服された知らせが届くと、独立派のクリオーリョがスペイン人官吏を追放し、1811年6月11日にパラグアイ共和国の独立を宣言した。これはラテンアメリカ諸国の独立では、1804年のハイチの独立に次いで二番目であり、南アメリカ大陸では最も早かった。1814年には独立派の指導者フランシアに実権が移譲され、彼は終身大統領として独裁政治を行った。

鎖国から開国へ

 パラグアイは海に面しておらず、ラプラタ川が唯一の出口であり、また隣接するブラジルとラプラタ諸州連合(アルゼンチン)の領土的野心に常に脅かされていた。そのような条件のもとでパラグアイは一種の鎖国体制を採り、政治も独裁体制を採った。そのためパラグアイはラテンアメリカ諸国の中でカウディーリョによる内乱を経験しなかった。独裁権力はフランシアの死後、その後継者ロペス親子が引き継いだ。ロペス父は一転して開国政策を採り、ヨーロッパの技術や文化の導入に努め、イギリスを手本に軍備を増強した。

パラグアイ戦争

 1862年に父を継いだソラノ=ロペスは、ウルグアイの内紛に乗じてブラジルに戦争を仕掛けた。それにたいしてブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ三国が同盟を結んでパラグアイとの戦争になった。それが1865~70年のパラグアイ戦争で、この戦いでパラグアイは人口を半減させ、しかも成人男子人口の90%が戦死し、ソラノ=ロペス自身も戦死するという大敗北を喫した。敗戦によって多くの人口と領土を失ったパラグアイは国力の復興に20世紀半ばまでかかったと言われる。<国本伊代『概説ラテンアメリカ史』2001 改訂新版 新評論 p.144>

Episode 日本陸軍の模範とされたパラグアイ

 太平洋戦争末期、本土決戦を前にして、日本陸軍の中堅幕僚は、しばしば「南米のパラグアイを見習え」と言ったという。「パラグアイは19世紀後半に隣接する三カ国と戦い、大統領が戦死をしたうえに人口が52万人から21万人に減ったらしい。その国を見習えというのは、まさに天皇から庶民まで総特攻で本土決戦を行うという意味であった。」<保阪正康『本土決戦幻想 コロネット作戦編』2009 毎日新聞社 p.248>
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第12章1節 イ.ウィーン体制の動揺