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ハイチ

西インド諸島の一つでフランス領(サンドマング)となったが、黒人のトゥーサン=ルヴェルチュールが指導する独立運動が起こり、1804年にラテンアメリカ最初の黒人共和国ハイチとして独立した。独立後は苦難の道を歩み独裁政治が行われた。

 1804年、ラテンアメリカで最初の独立国、しかも黒人が建国した国家である。西インド諸島の中でキューバに次いで二番目に大きいエスパニョーラ島の西側約3分の1占める。エスパニョーラ島はコロンブスが第1回航海から根拠地を設けたところで、以後、スペイン人の入植が活発に行われ、金・銀・真珠などの財宝は略奪され、抵抗した(アラワク人)は虐殺された。また現地人はインディオといわれ、主として砂糖生産の現地労働力として酷使されるうちに絶滅してしまった。エスパニョーラ島を初めとする新世界におけるスペイン人のインディオに対する非人道的な、すさまじい虐殺によって、インディオ人口が急速に減少したことは、ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の中に詳しく述べられている。

フランス領となる

 スペインの植民地支配が続く中で、インディオに代わる労働力として、アフリカ大陸から黒人奴隷がもたらされ、人口の大半を占めるようになった。島の西部は17世紀からフランス人の進出が始まり、サンドマングと言われるようになり、ヨーロッパ大陸で起こったファルツ戦争でフランスとスペインが戦った結果、1697年にライスワイク条約が締結され、スペインから正式にフランスに割譲された。エスパニョーラ島の東半分はスペイン領として残った。サンドマングはフランス人による砂糖プランテーションが開かれ、本国に大きな富をもたらしたが、白人支配者と、黒人およびムラート(白人と黒人の混血児)からなる被支配層の対立が激しくなった。

ハイチの独立

 フランス革命が起こるとハイチでも自由を求める声が強まり、1791年にサンドマングの黒人奴隷暴動が起こった。1794年には本国の国民公会が奴隷制の廃止を宣言した。その指導者として登場した黒人のトゥーサン=ルヴェルチュールは、98年には干渉してきたイギリス軍を破り、さらに本国で権力を握ったナポレオンが送った軍隊を破り、その結果1804年にハイチ共和国として独立した。これはラテンアメリカ地域の最初の独立国家であった。フランスも25年に承認した。ナポレオンが派遣したフランス軍の中には、当時ナポレオンに従って独立をめざしていたポーランドの兵士もいたが、その多くはハイチの苛酷な熱帯気候で倒れてしまった。またハイチの反乱は、ナポレオンのアメリカ新大陸と西インド諸島にかけての植民地支配にも影響を与え、1803年にルイジアナをアメリカに売却する。

黒人共和国としての歩み

 ハイチは後に黒人の大統領が皇帝となり、黒人帝国となった。なお、イスパニョーラ島東部はスペイン領であったが、1819年に独立を宣言しドミニカ共和国となった。ところが1822年にハイチが武力侵攻し、首都サント=ドミンゴを占領。その占領は1844年まで続いた。その後も安定を欠き、一時スペイン領に戻ったこともあった。その後もハイチとの対立は尾を引いている。

現在のハイチ

 国名のハイチ Haiti は「山の多いところ」を意味する現地の言葉。独立の時にフランス名のサンドマング(Saint-Domingue)から改めた。なお、ハイチは日本だけの呼称で、フランス語ではアイティ、英語ではヘイティと発音する。
 現在のハイチ共和国は国土は約2万7千平方キロ、人口約990万、首都はポルトー=プランス(王子の港、の意味)。民族は9割以上が黒人、宗教はカトリック、言語は植民地時代以来のフランス語とクレオール語が公用語である。
 1957年から86年までデュバリエ親子の独裁政権が続いたが、1987年に民主主義的な憲法が制定された。90年にアリスティド大統領が選出された。しかし91年に軍事クーデターが起き、それ以来内乱状態が続き、国連の多国籍軍の展開に至った。94年にアリスティドが帰国して軍政は終わったが、その後も選挙の不正など政情不安が続く中、経済も悪化し、ハイチは世界で最も貧困な国家といわれるようになった。2004年からは再び政府軍と反政府武装勢力間の衝突が始まった。そのような中で2010年1月12日、マグニチュード7クラスの大地震が起き、死者30万人という大惨事となり、国際的な救援活動も行われた。しかし、政府が十分機能せず、現在も伝染病の蔓延、経済不安、暴動の危機が続いている。
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第12章1節 イ.ウィーン体制の動揺