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ポーランドの反乱(1830)

1830年、ロシア皇帝の実質支配からの独立をめざしたポーランドの反乱。ロシア軍によって鎮圧された。

 ウィーン体制下で成立したポーランド立憲王国は、名前にはポーランドを冠していたが、ロシアの皇帝が国王を兼ね、実質的にロシアの一部となる状態であった。当初は議会が独自の決定なども行っていたが、次第にロシア化が強制され、国家主権を奪われたポーランド人は、ロシアからの独立をめざす運動を断続的に行っていた。またロシア領以外のプロイセン領、オーストリア領のポーランド人のなかにも独立と自由を求める声が強まっていた。

ロシアからの解放を目指す蜂起

 1830年にはフランスの七月革命の影響を受けて、独立運動が一気に高揚した。1830年11月25日、ワルシャワの士官学校でロシア人教官が二人の若い生徒をむちで打とうとしたのをきっかけに、反乱が始まった。コンスタンチン大公(ポーランド総督。ロシア皇帝ニコライの兄)の宮殿を襲い、30名の生徒が侵入した。大公は頭に負傷したが危うく逃れ、反乱軍はワルシャワで秘密警察の隊長を縛り首にした。フランスから義勇兵がかけつけ、不揃いの武器が国境をこえて密輸された。プロイセン、オーストリアは革命の飛び火を恐れてツァーリを助けようとした。
 ポーランド革命勢力の中にも急進派と妥協的な保守派が対立していたが、31年1月、急進派のジャコバン人民派が政権を握って国会を開き、独立を決定した。それに対して2月にロシア軍が進撃を開始した。ポーランドは4月30日に独立を宣言したが、9月8日にロシア軍がワルシャワを制圧し、ポーランド独立運動は押さえられてしまった。1万5千にのぼる亡命者がフランスに逃れた。ニコライ1世はポーランドを事実上属州にし、ロシア化政策をとった。

Episode ショパンの『革命』

 ショパンは前年30年の冬、20歳でウィーンに演奏をしていた。独立戦争の勃発に熱狂して帰国しようとしたが、父親に音楽に生命をかけるよう手紙で説得される。31年7月パリに向かい、途中シュツットガルトでワルシャワ陥落のニュースを聞く。その衝撃が作品10第12のハ短調練習曲『革命』である。左の<CD案内>にあげたのは、ポーランドのピアニスト、アダム・ハラシェヴィッチの演奏したショパンのピアノ名曲集で、「革命」も収録されている。ハラシェヴィッチは1955年のショパン・ピアノコンクールでウラジミール=アシュケナージを抑えて優勝した。ポーランド出身者がショパンコンクールで優勝したのは二人目だったので話題になった。

その後のポーランド

 1846年にはポーランド南部のクラクフで独立運動が起こったが、オーストリア・プロイセン・ロシア三国の軍隊によって鎮圧された。1848年革命が、フランスの二月革命、ウィーンとベルリンでの三月革命と続き、ウィーン体制が崩壊すると、ヨーロッパの被抑圧民族のナショナリズムが高揚し、「諸国民の春」といわれる民族独立運動の大きなうねりが起きた。ポーランドでもポスナニとガリツィアで独立運動が起こったが、それぞれプロイセン軍とオーストリア軍によって鎮圧されてしまった。さらに1863年の1月にはポーランドの反乱が起きるが、それもロシアに抑圧され、ポーランドの独立が達成されるのは、第1次世界大戦とロシア革命を待たなければならない。
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CD案内

ショパン
『ピアノ名曲集』
アダム・ハラシェヴィッチ演奏