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ポーランド

ドイツとロシアにはさまれた位置にある東欧の重要なキーとなる国家。大国であった時期から分割によって署名した時期、を繰り返し、また今度の大戦を機に国土の領域が大きく変化した国家。

 東ヨーロッパのスラブ系国家の一つ。バルト海に面し、一次はリトアニアと一体化して広大なリトアニア=ポーランド王国を形成した。西部のドイツと東部のロシアにはさまれて、常に領土的な脅威を受け、一次は国家としては消滅しているので、弱小国と思われがちであるが、10世紀の王国建設以来、モンゴルの侵入を撃退し、14世紀にはリトアニアと連合してヤゲヴォ朝のもとで大国となった。その領土は現在のリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ一帯に及んでいた。政治的には選挙王制がとられ、シュラフタという土地貴族を主体とした議会政治が行われていたが、安定した国家権力が構成されず、17世紀以降はプロイセンとロシア、オーストリアの干渉を受けるようになり、18世紀末までにこの三国のポーランド分割によって国家は消滅してしまった。その後、ナポレオンによって一部がワルシャワ大国として復活、ウィーン体制かではポーランド立憲王国としてポーランド国家の形がとられたが、実態はロシアの支配が続いた。ポーランドが実質的な独立を回復したのは第一次世界大戦後である。大戦間のポーランドはロシア革命に乗じて領土を拡張する動きを見せ、ソ連と厳しく対立した。第二次世界大戦が始まると東西からドイツとソ連に侵攻され、再びポーランドは分割支配され消滅した。大戦中もナチスドイツに対する抵抗を続け、ソ連軍の支援で共産政権が成立し、戦後は社会主義国家となり、ワルシャワ条約機構の加盟国としてソ連の衛星国家となった。社会主義経済体制が行き詰まった20世紀末にポーランドの「連帯」の自由をお求めるストライキが、東欧革命の端緒となり、一気に東欧社会主義陣営は崩壊し、ポーランド共和国も自由化、資本主義化を遂げ、2004年にはヨーロッパ共同体に加盟した。
 → (1)ポーランド人/ポーランド王国  (2)リトアニア=ポーランド王国  (3)選挙王制とポーランド分割  (4)ポーランドの苦難  (5)ポーランドの独立  (6)第二次世界大戦とポーランド分割  (7)社会主義政権の成立  (8)混乱と「連帯」の登場  (9)民主化と現代

(1)ポーランド人/ポーランド王国

ポーランド人は、10世紀ポーランド王国(ピアスト朝)を建設し、カトリックを受容したスラヴ系国家という独自の道を歩み始める。11世紀以降、神聖ローマ帝国から政治的・宗教的に独立した地位を確保するが、一方ドイツ人の領内への東方植民も多くなった。1241年にはモンゴルのバトゥの軍が来襲、ワールシュタットの戦いで大敗したが、14世紀に勢力を盛り返しカジミェシュ3世(大王)のころ、全盛期となった。彼は首都クラクフに大学を設立、コペルニクスもここで学んだ。

 ポーランド人はスラヴ人の中の西スラヴ人に属する。少なくとも9世紀までにポラニェ族を中心にポーランド国家を建設。ポラニェは、平原を意味するポーレから来た。ポーランド(英語表現。ポーランド語ではポールスカ)もポーレに由来する。10世紀に西はオーデル(ポーランド語でオドラ)川と東はヴィスワ川の間の平原にポーランド王国を建設し、カトリックを受容したスラヴ系国家という独自の道を歩み始める。

ポーランド王国ピアスト朝

 ポーランド人が10世紀頃に建国した最初の王朝は、その先祖の名前からピアスト朝(ピャスト朝とも)と言われている。オーデル川中、上流のシュレージェン地方もこのころポーランド領となった。11世紀以降、神聖ローマ帝国から政治的・宗教的に独立した地位を確保するが、一方ドイツ人の領内への東方植民も多くなった。

モンゴル軍の侵入

 1241年にはモンゴルのバトゥの遠征軍が侵入してきた。ポーランド王国はドイツ諸侯に救援を要請、ドイツ=ポーランド連合軍としてワールシュタットの戦いで戦ったが敗れた。この地は、現在のポーランドのリーグニッツににあたる。ポーランドは恐慌に陥ったが、モンゴルのバトゥ軍は間もなく東方に引き揚げ、その支配を受けることはなかった。

14世紀の全盛期

 14世紀にカジミェシュ3世(大王)の時、ベーメン王国とドイツ騎士団の干渉をはねのけて、国力を充実させ、1364年首都クラクフに大学を創設(コペルニクスもここで学んだ)した。

ローマ=カトリックとポーランド

 ポーランドのローマ=カトリック教会受容は、966年の初代国王ミエシュコ1世に始まる。このころドイツ王オットー1世は、ポーランドのキリスト教化を口実に支配を及ぼそうとしたので、ミエシュコ1世は先手を打ってキリスト教徒のボヘミア王の娘を妻に迎えて洗礼を受け、さらに991年ごろポーランドをローマ教皇庁に寄進した。これ以後、ポーランドとローマ教会は深い結びつきを持つようになる。
 16世紀の宗教改革ではルター派とカルヴァン派の影響も及び、特にシュラフタ(貴族)層にはカルヴァン派が有力となった。これは王政に対して反発し、一種の貴族民主制であるシュラフタ民主政を形成していたシュラフタの自由主義的な傾向と一致したからであろう。ヤゲウォ長も選挙王制でも、国王はカトリックたるべしと言う前提はあったが、国王は宗教に関しては寛容な姿勢を取らざるを得なかった。後世から見ればポーランドはカトリック国というイメージが強いが、当初はプロテスタントもかなり存在したことには注意しておこう。
 しかし17世紀には反宗教改革が優勢となった。ポーランドのカトリック信仰は、西のプロイセン(ドイツ人)のプロテスタント、東のロシアのギリシア正教という二つの勢力の間にあって、いずれにも与しない民族としてのアイデンティティでもあるようだ。ポーランドのカトリック教会はナチスの支配と戦後の社会主義体制下においても自由を求める民衆の側に立っていた。
 1978年にローマ法王となったヨハネ=パウロ2世はポーランド出身でクラクフ大司教だった人。彼が法王となったことはポーランド人に大きな勇気を与えた。また、第2次世界大戦後のポーランド人民共和国時代、1980年代のポーランドでに社会主義体制が動揺して「連帯」による民主化の動きが強まり、国論が分裂したときも、カトリック教会が国家統合に大きな力を発揮することになる。

(2)リトアニア=ポーランド王国

1386年にはピアスト朝の王位継承者の断絶とともに、北方のリトアニアと連合王国となった。それはドイツ騎士団の東方進出という脅威への対応であった。このリトアニア=ポーランド王国は、14~16世紀にヤゲウォ朝のもとで1410年にはドイツ騎士団を破り、東欧での大国となった。両国は1569年のルブリン合同で正式に合体した。16世紀後半からは選挙王制を採る。

同君連合の成立

 ポーランド王国は14世紀が最盛期であったが、1386年にカジミェシュ3世(大王)の死によって断絶したため、ピアスト朝の女王ヤドヴィカの夫として北方のリトアニア大公のヤゲウォをむかえ、その両者を対等の王とすると連合王国としてリトアニア=ポーランド王国を形成する。それはドイツ騎士団の東方進出が両国に共通の脅威だったからである。

ヤゲウォ朝の繁栄

 このリトアニア=ポーランド王国のヤゲウォ朝は、1410年にはタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破り、さらに1454~66年の十三年戦争でふたたびドイツ騎士団と戦い、バルト海への出口グダンスク(ドイツ名ダンツィヒ)を回復して、穀物や材木の輸出が急速に延び、経済は飛躍的に発達して、14~16世紀に東ヨーロッパの強国として繁栄する。リトアニア=ポーランド王国と戦って敗れたドイツ騎士団は1525年にポーランド王国を宗主国とするプロイセン公国となった。
 このころプロイセン公国領となったエルムランドで活躍していたポーランド人の医師兼天文学者がコペルニクスであった。

ルブリンの合同

 こうしてヤゲウォ朝のもとで東欧での大国となった両国は1569年に「ルブリンの合同」で正式に合同し、同一の国王、同一の身分制議会(セイム)をもつことになった。また領土も現在のウクライナも含む広大な国土を有することとなった。しかし、両国の合体は、実質的にはポーランドがリトアニアを併合したものであったので以後は単にポーランド王国と称することが多い。この間、ドイツ騎士団との戦争で中核として戦った貴族層であるシュラフタの発言権が強まり、国王は実際にはシュラフタの議会で選出されるようになった。

(3)選挙王制とポーランド分割

ヤゲヴォ朝の断絶後、シュラフタと言われる貴族層が実権を握り、1572年から貴族によって国王が選出されるという選挙王制となった。17~18世紀、ウクライナのコサックやスウェーデンからの侵入を受け、弱体化する。18世紀末までに絶対王政のもと軍事力を強めた周辺のロシア、プロイセン、オーストリアの三国によって分割され国家が消滅した。

選挙王制

 1572年にヤゲウォ朝が断絶すると、選挙王制がしかれることとなった。国王を選出するのはシュラフタと言われる大小の貴族層であり、また国王にはポーランド人以外の外国の王家の有力者が選出された。それはシュラフタが国王をコントロールする体制でありシュラフタ民主政とも言われるが、それはシュラフタ同士の対立と外国の介入の原因となり、ポーランドの弱体化が始まっていった。1611年には首都はクラクフからワルシャワに移され、以後はワルシャワが首都として現代までつつく。1648年にはウクライナのカザークの反乱やバルト海の北からスェーデンが侵入(これを「大洪水」といった)によってポーランドの国力は衰えていく。

「大洪水」

 1648年、ポーランド王国に属するウクライナコサックが反乱を起こした。彼らはかつて、モンゴルの侵入などと戦った草原の騎馬軍団の子孫であったが、ロシア人と同じくギリシア正教会の信仰を持っていたので、カトリックの多いポーランド貴族の支配には反感を持っていた。そこでコサックはウクライナの自治を求めて反乱を起こし、ロマノフ朝のロシアに支援を仰いだ。1654年、ロシアが援軍を送ると、翌年、対抗するように新教国スウェーデンも北方から侵入、ポーランドは「大洪水」といわれる、スウェーデン軍とロシア軍の侵略を受けて、滅亡の危機に立たされた。1660年に講和となったが、ポーランドの国土の荒廃が進み、中小のシュラフタも没落、少数の貴族の支配する状態となった。この「大洪水」がポーランド衰退のきっかけとなった。1660年にはそれまで宗主権を持っていたプロイセン公国の独立を認めた。

ポーランドの弱体化

 1683年には、オスマン帝国のウィーン包囲(第2次)の際、ポーランド王ヤン3世ソビエツキ(久しぶりにポーランド人で王に選出された)は3万の軍勢を率いてウィーンを救出し、キリスト教世界の賞賛を受け、王の死後のカルロヴィッツ条約ではオスマン帝国から右岸ウクライナを奪回した。しかし、ヤン3世はポーランド王国の繁栄の最後の国王となった。
 ついで、1701年の北方戦争を機にロシアとスウェーデンの侵入を受けるようになり、ポーランドの弱体化はさらに進む。
 1733~35年にはポーランド王の選挙を巡って、ポーランド継承戦争が起こった。これはポーランド国王アウグスト2世の死去に乗じて、フランス王ルイ15世が義父のスタニスラス=レクザンスキを王位に選出させたことにオーストリアとロシアが反発して前王の子を国王としたためにポーランド王が同時に二人出現、フランスがオーストリアに宣戦布告した始まった。ロシアがポーランドに進撃し、スタニスラスが追い出されたためフランスの目論見はくずれた。このように18世紀前半までにポーランドの王位は非常に不安定で外国の干渉を招くことになり、次のポーランド分割に至ることになる。

“街道沿いの旅籠”と化したポーランド

18世紀前半のポーランドについては次のような説明がされている。
(引用)・・・国家としての機能をまったく失っていた。中立とは名ばかりで、かつての“キリスト教の防壁”は、ロシア、プロイセン軍が自由に往来する“街道沿いの旅籠”と化していた。議会の機能停止によって監視を受けなくなった宮廷や大臣は、その権限を私腹を肥やすためだけに使った。大貴族の城館はそれぞれの地方権力の中枢となり、中欧権力から独立して、またしばしば法を無視して、活動していた。“我々の自由は無秩序であり、またそうあらねばならない”という無謀な見解が、圧倒的多数のジュラフタ(貴族)の間に市民権を得ていた。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.40>
 つまり、18世紀ポーランドは、主権国家の形成が出来なかったと言うことであり、それを阻害したのがシュラフタの存在であった、ということであろう。

ポーランドを巡る国際情勢

 18世紀前半のスペイン継承戦争・北方戦争・オーストリア継承戦争・七年戦争と続いた主権国家間の戦争によって、18世紀中ごろのヨーロッパの国際情勢は、ロシア・オーストリア・プロイセン・フランス・イギリスという「五大国体制」を確立させた。この五大国は、領土を拡張しながら均衡をはかるという国際秩序をつくりあげたが、18世紀後半のイギリスからのアメリカ独立戦争、フランス革命によって、イギリス・フランスがやや後退した。その間に、ロシア・オーストリア・プロイセンの三大国が強行したのがポーランド分割であった。

ポーランド分割

 ロシアプロイセンオーストリアの三国によるポーランド分割は、18世紀末に3回にわたってい行われた。まず、1772年、ロシアのエカチェリーナ2世、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世(実権はマリア=テレジア)の三者によって第1回分割が行われ、三国はそれぞれ隣接する地域を自国領に編入することをポーランドに認めさせた。第1回分割はポーランド国内に深刻な危機感を呼び起こし、国王による改革が行われ、憲法も制定された。しかし、ロシアのエカチェリーナ2世は、フランス革命が進行して西欧諸国が忙殺されている間に残りのポーランドの領有を狙い、プロイセンのフリードリヒ=ウィルヘルム2世とともに、1793年に第2回分割を承認させた。翌1794年、ポーランドのコシューシコは分割に抵抗して蜂起し、ロシア軍と戦ったが敗れ、1795年に第3回分割が、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって行われて、ポーランドは国家としては地図上から消滅する。

(4)ポーランドの苦難

ナポレオンがプロイセンとの戦争に勝利し、プロイセン領ポーランドの地にワルシャワ大公国を建てた。しかしこの国は真のポーランド国家の復活とは言えなかった。ナポレオン没落後、ポーランド立憲王国がそれを継承したが、この国はロシア皇帝を国王としたので、実質的にはロシア支配が続いた。ウィーン体制時代にはポーランドの民族運動が次第に活発となって、しばしばロシア・プロイセン・オーストリアに対する反乱を起こしたが、いずれも失敗し、その支配が続いた。

 分割され三国の支配下に入ったポーランドではその後も独立をめざす運動が続いた。フランス革命の理念を継承したナポレオンがプロイセン・オーストリア・ロシアの君主国に対する戦争を開始すると、ポーランドの人々は、ナポレオンを解放者として期待し、その征服戦争に協力した。

Episode ポーランド国歌

 ナポレオン軍の捕虜となったオーストリア軍のなかにはポーランド出身者が多数含まれていた。そのポーランド兵は、パリに亡命しナポレオンに協力していたドンブロフスキー将軍のもとに結集し、1797年にナポレオンが北イタリアに樹立したロンバルディア共和国の守備隊としてポーランド軍団を発足させた。その軍団歌は「ポーランドいまだ滅びず、我ら生きるかぎりは」で始まり、「すすめ、すすめドンブロフスキイ、イタリアの地よりポーランドへ。なんじの指揮のもと、我ら、国の民と結ばれん」で終わる。民族の自由と独立とを追求し続けるポーランドの象徴として、この歌は今日のポーランド国歌として歌い継がれている。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.76>

Episode ポーランド軍団の悲劇

 このポーランド軍団は1799年、フランス軍に編入されたあともナポレオンに忠実に、イタリア戦役やドイツ戦役に参加した。翌年末、彼らはオーストリア軍を追って、ウィーンに迫った。しかし、ナポレオンは1801年2月、オーストリアとリュネヴィルの和約を結び、一転してオーストリアの内なる敵であるポーランドを支援しないと態度を変えた。
(引用)軍団員の怒りは大きかった。今や反抗的なポーランド軍団は、ナポレオンにとって厄介な援軍となった。軍団の過半数、6000人がサン=ドミンゴ島(ハイチ)に送られた。祖国の自由のために戦う戦士が、同じく民族の自由を守ろうとする植民地原住民と戦うことを命じられる。これほど悲劇的なことはない。大半は熱帯性気候や熱病で倒れ、再びポーランドの地に帰り得た者はわずかに300名ほどだったという。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.77>

ワルシャワ大公国

 1806年、イエナの戦いでプロイセン軍を破ったナポレオンは、プロイセン領の旧ポーランドにワルシャワ大公国を建設、翌1807年にティルジット条約と結び、プロイセンに承認させた。地域的にはポーランドのプロイセン領だった地域のワルシャワを中心とした国家で、国民はポーランド人であったが、その君主であるワルシャワ大公はドイツ人のザクセン公が兼ねたので、ポーランド人国家とは言えない傀儡国家であった。このワルシャワ大公国は、ナポレオン没落後のウィーン議定書において消滅し、その大部分はポーランド立憲王国となって実質的にロシアの支配を受け、一部はプロイセン領となった。

ポーランド立憲王国

ウィーン会議によって成立した、ポーランドのプロイセン領だった地域に建てられた国家だが、ロシア皇帝を国王としているので、実質的にはロシアに支配される国家だった。

 ポーランドの地にナポレオンによってつくられたワルシャワ大公国がその没落によって消滅したが、ウィーン会議において、ロシア皇帝アレクサンドル1世の主張により、その大部分の跡地にポーランド人の国家をつくることとなった。1815年のウィーン議定書によって確定して成立したその国は、ポーランド立憲王国、または単にポーランド王国と言われたり、ウィーン会議の結果生まれた王国なので、会議王国といわれることもある。近隣三国によって分割されて消滅したポーランド国家の称号が復活したが、国王はロシア皇帝が兼ねているので、実質的にはロシア領であった。

ポーランドの独立運動

 ロシアのアレクサンドル1世は、ポーランドの伝統の議会の復活を認めたので「立憲王国」とされ、当初は一定の自治を認めていたが、ロシア本国にはない議会の存在を忌まわしく思うようになり、次第に無視し専制政治を押しつけるようになった。反発したポーランド人はたびたび独立運動を続けていたが、1830年にはフランスの七月革命の影響を受けて、ワルシャワでポーランドの反乱が起こった。この反乱は翌年まで続き、一時は議会が独立を宣言するところまで言ったが、ロシア軍によって弾圧されてしまった。ポーランド人のピアノの名手ショパンが憤激し、「革命」を作曲したのがこの時である。
 その後もポーランドはヨーロッパの焦点の一つとなり、1846年のクラカウ、1848年のポスナニとガリツィアと反乱が起こった。ロシアがクリミア戦争で敗れて、アレクサンドル2世が能動か法令などの改革を実施すると、ポーランドの民族主義運動も刺激されて1863年1月にポーランドの反乱が起こった。しかし、ロシアは鎮圧軍を派遣して厳しく弾圧し、かえってポーランドに対するロシア語の強制など一体化を進め、ポーランド王国は名前だけの存在となった。その後もポーランドに対してはロシアやプロイセン、オーストリアなど周辺諸国の圧迫がつづき、独立運動は1世紀以上に渡って抑えられ続けた。このような時代のポーランドで、ユダヤ人であったザメンホフは、言語の違いから来る民族対立を解消しようとして、人工国際語としてエスペラントの創作に工夫したが、それはロシアのツァーリ政府からは弾圧された。
 ポーランド独立がようやく実現するのは、第1次世界大戦の勃発とロシア革命によりロシア帝国が消滅した1918年であった、

(5)ポーランドの独立

第一次世界大戦中にロシア革命が勃発したことを受け、1918年にポーランド共和国として独立を達成した。しかし国家主席ピウスツキは革命で混乱するソヴィエト=ロシアに侵攻し、ソヴィエト=ポーランド戦争が勃発、領土を拡大し、現在のウクライナ、ベラルーシまで拡大した。彼は1926年から独裁政治をさらに強化した。

第一次世界大戦とロシア革命

 第一次世界大戦が勃発するとポーランドではピウスツキらが軍団を組織して、ドイツ・オーストリアと結んでロシアと戦った。しかしドイツ・オーストリアはロシアにかわってポーランドを支配すると、その独立を認めず、形だけの政府を認めるに留まった。ピウスツキは反ドイツ姿勢に転じたため、投獄されてしまった。
 ところが1917年11月のロシア十月革命で成立したソヴィエト政権は、ただちに「ロシアにおける諸民族の権利の宣言」を公布し、各民族の自決権を認めた。続いて翌年8月には三国によるポーランド分割条約の破棄を声明した。
 一方、アメリカのウィルソン大統領もこれに対抗して、十四カ条の原則のなかで、「海への自由な出口を持つポーランドの独立」を認めた。また1918年3月のソヴィエト政権とドイツの間で締結された講和条約であるブレスト=リトフスク条約でもソヴィエト側が領土主張を放棄した。

ポーランド共和国の成立

 ドイツの敗色が濃厚になるとドイツ寄りの政府に対してストライキなどの抗議が相次いだ。分割国家の状況が長かったため、統一政権の樹立は困難であったが、ドイツが敗北して解放されたピウスツキがポーランドに戻ると政府は彼に全権を移譲した。こうして1918年11月11日、ピウスツキを国家主席としする共和政国家として独立を回復した(第二共和制)。

国土の回復

 独立を回復したポーランドは、1919年6月、ヴェルサイユ条約によって、ドイツからはポーランド回廊を得てバルト海に出口を得た。オーストリアは連合国と締結した講和条約サン=ジェルマン条約でポーランドの独立を承認した。これによってポーランドは正式にロシア、オーストリアに支配されていた国土を回復した。

ピウスツキーの独裁政権

 独裁的な権力を得た国家主席ピウスツキは、さらに18世紀末のポーランド分割以前の領土の回復をめざして、1920年革命後で混乱しているロシア領に侵攻し、ソヴィエト=ポーランド戦争を起こした。ソヴィエト軍の反撃は一時ワルシャワまで迫ったが、フランスの援助で撃退して独立を維持。1921年のリガ条約で、ベラルーシとウクライナを獲得した。ピウスツキはいったん辞任するが1926年クーデタで権力を握り、以後1935年まで独裁者として君臨する。

(6)第二次世界大戦とポーランド分割

1930年代には西のドイツにナチスが台頭、東のソ連ではスターリン体制が成立し、この二大国に挟まれ苦境が続く。1939年9月、ドイツ軍がついにポーランドに侵攻、同時に密約に基づいてソ連軍が東から侵攻、ポーランドはそれぞれ軍事占領され、再び東西に分割された。1941年独ソ戦が始まると、ドイツはソ連軍をポーランドから追い出し、さらにソ連領に侵攻。その間、ポーランドはドイツの占領下となり、ユダヤ人虐殺が行われる。それに対する抵抗運動、解放運動も始まる。

ナチス=ドイツの圧力

 ドイツのヒトラーは1935年、ポーランドに対してポーランド回廊の自由通行を要求、圧力をかけた。1938年、宥和政策を取るイギリス・フランスの譲歩を勝ち取ったヒトラーは、チェコスロヴァキア分解に成功すると、いよいよポーランドへの野心を露わにし、1939年8月、独ソ不可侵条約を締結した。ようやく宥和政策を見直したイギリスとフランスは、同月、相次いでポーランドとの相互援助条約を締結して、ポーランドの防衛に当たる姿勢を示した。

ドイツ軍・ソ連軍の侵攻

 1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発、電撃戦によってポーランドに侵攻したドイツ軍は、わずか三週間でポーランド軍を壊滅させ、27日には首都ワルシャワが陥落、ポーランドは10月5日に降服し、首都ワルシャワを含むその西半分はドイツの占領下に入った。イギリスとフランスは、ただちにドイツに対して宣戦布告をしたが、相互援助条約があるにもかかわらず、ポーランドに対する援軍も派遣せず、ドイツを西側から攻撃することもしない奇妙な戦争という事態となった。
 一方、独ソ不可侵条約の秘密協定でポーランド分割を密約していたソ連(スターリン政権)は、9月17日にポーランド侵攻を開始、約10日間でその東半分を制圧し、さらに西ウクライナ、白ロシアを占領した。 → カチンの森事件
 こうしてポーランドは、18世紀終わりのプロイセン、オーストリア、ロシアによるポーランド分割以来、再び東西の強国によって分割支配されることとなった。これを「第4次ポーランド分割」と呼ぶこともある。ポーランドのシコルスキ大将はロンドンに脱出し、亡命政府を設けた。

ポーランド問題

 第二次世界大戦末期に起こった、大戦後のポーランド国境をどこに置くかをめぐる、主としてイギリス(チャーチル)とソ連(スターリン)の対立。第2戦線問題と共に連合国内部の深刻な対立案件として話し合いが続けられた。1943年テヘラン会談では、チャーチルはソ連赤軍によってポーランドが解放されると、東欧全体へのソ連の影響力が増すことをおそれ、その前にポーランド国境を確定することが有利と考え、西側をオーデル=ナイセ線、東側をカーゾン線(ヴェルサイユ条約でのポーランド・ロシアの国境線)で妥協しようとした。しかしロンドンのポーランド亡命政府(ミコワイチク首相)は国境をさらに東寄りにすることを譲らず、問題を持ち越した。

ワルシャワ蜂起

 ドイツ支配下のポーランドの首都ワルシャワで1944年8月1日からポーランド国内軍と市民による反ドイツの蜂起が始まった。63日にわたる戦闘の末、10月2日にドイツ軍によって鎮圧され、兵士1万8千と市民約15万が死んだ。当時ソ連軍がワルシャワに迫っていたが、結局ソ連軍はワルシャワ蜂起を見殺しにしたと言われる。当時ソ連軍は東からドイツ軍を追撃し、ワルシャワに迫っていたが、ロンドンのポーランド亡命政府はソ連軍によってワルシャワが解放されると戦後の指導権をソ連に握られると考え、国内軍に指示して蜂起を早めたのだった。またソ連はカチンの森事件でポーランド亡命政府と対立しており、進撃のスピードを緩め、蜂起軍を救援しなかった。もともと無理な蜂起でっったこととソ連軍の支援がなかったため、蜂起は63日で鎮圧され、ポーランド兵1万8千、市民15万が死んだ。国内軍は再び地下に潜り、ロンドンの亡命政府の立場は弱まった。

Episode ワルシャワ蜂起の悲劇

(引用)八月一日、蜂起。決起兵士三万数千人のうち、十分な武装のできた者は一割ほどだった。それでも八月四日までに国内軍は市の大半を解放した。だがそのとたんにソ連の放送は調子を変えた。ロンドン陣営に対する非難を再開する一方で、八月一日から一三日間、ワルシャワ蜂起について一切言及しなかった。他方、第一白ロシア軍団の破竹の進撃も、急に停止した。英米両国は大規模な空輸作戦の遂行のためソ連空軍基地の使用を申請したが、認められなかった。・・・一〇月二日、ワルシャワは六三日間にわたる闘争ののち降伏した。蜂起軍兵士一万八〇〇〇人の他に、ともに戦った約一五万人の市民が死んだ。ポーランド人の多くは今でも彼らを「最良の息子たち」と呼び、いとおしんでいる。ヒトラーは、ワルシャワの完全な破壊を命令した。建築物の約八割が爆破され、ワルシャワは文字どおり瓦礫の山と化した。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』三省堂選書 1980 p.198>

(7)ポーランド人民共和国 社会主義政権の成立

第二次大戦後に独立を回復したが、戦後のポーランドでは1945年に挙国一致内閣が成立したが、主導権をめぐり共産党(後に統一労働者党と改称)と非共産党勢力が激しく抗争した。結局、1952年にソ連の支援を受けた共産党が権力を握り東側陣営の一員として社会主義体制をとり、ポーランド人民共和国となった。領土問題は戦後の東西対立の一つの焦点となったが、西側のドイツとの国境は当面、オーデル=ナイセ線とされ、ダンツィヒ周辺の旧ドイツ領飛び地も含めてポーランド領とされた。東側のベラルーシやウクライナの一部はソ連に返還した。その結果、ポーランド領は戦前に比べて全体が大きく西に移動する形となった。

 ポーランドは第二次大戦勃発とともに、ナチス・ドイツとスターリン・ソ連によって分割占領された。大戦末期のポーランド亡命政府(ロンドン)とソ連および国内のソ連系国民解放委員会(ルブリン政府)の関係は、カチンの森事件や、ワルシャワ蜂起の失敗によって悪化し、1945年のヤルタ会談でのポーランド問題の話し合いによる調停も実を結ばなかった。
 そのため、連合国によるサンフランシスコ会議にポーランドは代表を送ることが出来なかった。ようやく6月、亡命政府のミコワイチクが帰国して国民連合政府樹立に合意、ポーランド労働者党(42年に共産党から名称変更)書記長のゴムウカとともに副首相となった(首相は社会党左派のモラフスキ、大統領代行は労働者党のビエルト)。

ゴムウカの権力掌握

 新政府のもとで自由な総選挙が予定されていたが、労働者党のゴムウカはそのままでは敗北が予想されたので「民主主義ブロック」選挙という事前に各政党に候補者を割り振り、公認されたものだけの立候補を認めるという方法を国民投票で認めさせた上で選挙に踏み切り、他党の選挙運動を事実上不可能にして多数を確保した。ミコワイチクは絶望して再び亡命、事実上ポーランドは労働者党の一党独裁の下に置かれることになった。このような見かけは民主的な選挙だが、事実上は共産党だけが当選するようなしくみの「民主主義ブロック」選挙はブルガリアやアルバニア、ユーゴスラヴィアなどの東欧圏でしばしば行われた。

戦後のポーランドの国境変更

 ポーランドの国境は第二次世界大戦で大きく変更となった。戦前にはドイツ領が現在のポーランド内にかなり食い込んでおり、またポーランド領は現在のウクライナやベラルーシに食い込んでいた。戦後、ポーランド全体が西に移動したといえる。西ではオーデル=ナイセ線がポツダム協定で暫定的な国境とされ、懸案だったダンツィヒポーランド回廊はポーランドに返還され、1970年の西ドイツ=ポーランド国交正常化条約で確定した。東部のソ連との国境は、かつて第一次世界大戦後の1920年にイギリス外相カーゾンが策定したカーゾン・ラインに添って定められ、ポーランドはウクライナやベラルーシに大幅に国土を割いた。

Episode 『灰とダイヤモンド』

 1945年5月8日、ドイツ軍の降伏、大戦の終結を知らせる放送が流れるポーランドのある街で、一人の若いテロリストが警察に追われ射殺された。彼の名はマチェク。ポーランド労働者党の幹部を殺し逃げていたのである。アジェイェフスキの小説『灰とダイヤモンド』はこのポーランドの「解放」された一日の出来事を濃厚に描いている。この日、ナチスドイツの崩壊は、ポーランドの新たな抑圧の始まりとなった。ドイツ軍を駆逐したソ連軍のバックアップによって、労働者党(共産党が改称)による支配が始まったのだ。ポーランド人の「自由」への願望はスターリン主義という新たな権力によって再び抑圧される。この作品は1957年、アンジェイ=ワイダ監督によって映画化され、その鮮烈なラストシーンは、ポーランドの戦後を暗示していた。

スターリン派の体制

 1947年には労働者党と社会党が合同して統一労働者党が成立した。統一労働者党には次第にソ連のスターリン体制の影響を受けたモスクワ派が台頭し、ゴムウカは民族主義的に偏向しているとして批判されてるようになった。48年にゴムウカは逮捕され、その後はスターリン主義による国家運営が続き、集団化と重工業化が推進されていった。
 1952年、ポーランド人民共和国として正式に独立を宣言したが、スターリン派による自由の抑圧に対する不満は次第に強くなっていった。

ポーランド反ソ暴動

 1953年にスターリンが死去し、さらに56年、ソ連共産党自身がスターリン批判を行うに及び、ポーランド民衆の自由化要求は、まずポズナニの暴動となって現れ、ついに全国的なポーランド反ソ暴動として爆発した。ソ連は軍隊を国境に終結して圧力をかけたが、反政府勢力との妥協を図り、ゴムウカを復帰させることで収拾を図った。ゴムウカはワルシャワ条約機構からは離脱しないことを条件に、権力に復帰し、スターリン派に代わってソ連からの一定の距離を置いた社会主義路線を模索することとなる。

(8)ポーランドの混乱と「連帯」の登場

社会主義体制下のポーランドで、1956年に反ソ暴動が起きると、ゴムウカ第一書記が事態を沈静化するとともに社会主義体制の再建を図った。しかし経済停滞が目立ち始め、1970年に物価値上げに反発した労働者のストが起きるとゴムウカは解任された。替わったギエレク政権の下で経済改革(市場経済の導入)などの試みが行われたが民主化を伴わない経済改革は失敗し、民主化を求める反政府運動が始まった。1980年に食肉などの値上げに反対する労働者の運動から、ワレサが指導する自主管理労組「連帯」が生まれると、翌年ヤルゼルスキ政権は戒厳令を布告して民主化運動を弾圧した。

70年代 停滞と混乱

1970年 政府の物価値上げ政策に抗議した民衆のデモが北部のグダニスク造船所で起こり、全国に波及。数都市で暴動に発展したため、政府は軍隊を出動して鎮圧する一方で、責任をとってゴムウカ統一労働者党第一書記が退陣した。後任にはギエレクが就任した。ギエレク政権は民衆との対話を約束、賃金、年金の引き上げ、土地売買の自由などの経済改革に着したが、1973年の石油ショックの影響を受けて経済運営に失敗、巨額の財政赤字を累積させた。
1976年 ギエレク政権は、党の指導性を強化した憲法改正を強行、また大幅な物価値上げ(肉類69%、バター50%、砂糖100%など)を打ち出した。再び労働者、市民のデモが広がり、暴徒化した。学生、知識人の憲法改正反対運動も激化し、政府の不当逮捕に対する抗議運動がヨーロッパ各地に広がる。

80年代 「連帯」の登場

1980年 7月、政府は食肉などの値上げを発表。8月、グダニスクのレーニン造船所の労働者がストライキに突入。労働者の代表ワレサが政府との交渉を要求、8月31日政労合意協定(グダニスク協定)が成立。独立自主管理労組(統一労働者党の統制を受けない労働組合の意味)の結成と、スト権、経済政策への発言権などを認める。また、賃上げ、週休二日制などの労働者の権利向上、検閲の見直し、宗教団体のマスメディア利用の承認と言った自由化が約束された。10月、全国の独立自主管理労組が結集して「連帯」(ソリダルノスチ)を結成、ワレサが議長に就任した。政府側はこの大幅譲歩の責任をとって、ギエレクが辞任、カニアが第一書記となった。
1981年 このようなポーランドの自由化の動きを警戒したソ連の圧力が強まる。ポーランドでは体制強化のため、ヤルゼルスキ国防省が首相を兼任、連帯の運動を抑圧する。抵抗する連帯側にも強硬派が台頭、対立が激化。ついに12月、ヤルゼルスキ首相は戒厳令を敷き、連帯の活動家を逮捕、弾圧に踏み切った。ヤルゼルスキは「救国軍事評議会議長」として権力を集中させる一方、一定の経済自由化を推進し、複数政党による選挙なども認めるなど「上からの民主化」をはかり、ワレサも釈放して懐柔に務めた。
1983年 6月、ポーランド出身のローマ法王ヨハネ=パウロ2世が、里帰り、各地で熱狂的な歓迎を受ける。ポーランド民衆には熱心なカトリックが多く、ローマ=カトリック教会の影響力が大きいのが特徴。ヨハネ=パウロ2世はヤルゼルスキと会談して、その結果、戒厳令は解除、救国軍事評議会も解散された。

(9)ポーランドの民主化と現代

80年代に始まった「連帯」による民主化運動は、1989年1月にヤルゼルスキ政権が複数政党制を認めたことで一気に進み、同年の一連の東欧革命、更に翌年の東西ドイツの統一、そして91年のソ連崩壊という東欧社会主義圏の激変の先駆となった。社会主義体制を放棄してポーランド共和国となり、1999年にはNATO、2004年にはEUに加盟した。

ポーランド共和国の現在

ポーランド国旗  ポーランドは、北をバルト海に面し、西はドイツ、東はロシアに接する、東ヨーロッパの大国。面積は日本の約5分の4。人口は約3800万。国土の大部分は平原で、ポーランドという国名も、平原という意味のポーレに由来するという。
 ポーランド国旗(右図) 赤と白はナショナル・カラーとされ、白は純血と歓喜、赤は独立と民衆の流血を表すとされている。しかし元来は9世紀の半ば、「夕陽に白鷲が飛んでいくのを見たらそこに都を築け」という神の啓示に従い、レヒがワルシャワの地に国を築いたという建国神話に由来している。<辻原康夫『図説・国旗の世界史』2003 ふくろうの本 河出書房新社 p.48>

宗教と文化

 ポーランド人は西スラヴ系で、ロシア人などと同系統であるが、人口のほとんどがカトリック教徒で、その点で文化的には西側に近いといえ、ギリシア正教の多いロシアと異なっている点である。東欧の中で高い文化的水準を持っており、古くはコペルニクス、近代では音楽のショパン、パデレフスキ、文学でのシェンキェヴィッチ(『クォヴァディス』など)、科学者のキューリー夫人などが出ている。

ポーランド民主化

 1989年4月にヤルゼルスキ政権は「連帯」との交渉を行い、複数政党制などを認め、ポーランドの民主化が具体的に始まった。さらに6月には東欧で最初の複数政党制による自由選挙が行われ、9月にはこれまた東欧最初の非共産党による「連帯」系のマゾビエツキ内閣が成立、12月には国名から「人民」をはずしてポーランド共和国に変更するところまで一気に進行した。このポーランドの動きは一連の東欧革命の先駆的役割を果たした。
 1990年、「連帯」議長のワレサが大統領となった。ワレサは1980年以来の民主化の象徴的人物で人気が高かったが、次第にその権力を露骨に求める姿勢が非難されるようになり、1995年の大統領選挙では旧共産党系の候補者に敗れた。
 この間、ポーランドは1999年には北大西洋条約機構(NATO)、2004年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟した。 → EUの東方拡大
 その後、ポーランドでは民主改革派と旧共産党系とが交互に選挙で勝って政権を担当しているが、2005年12月にレフ=カチンスキ(旧連合活動家)が大統領に当選、さらにヤロスラフ=カチンスキという双子の弟を首相に任命した。双子で大統領と首相を兼ねるのはいかがなものか、という不安が西側諸国であがった。
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ノートの参照
5章2節 ウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立
9章1節 キ.ポーランドの分割
第12章1節 ア.ウィーン会議
第15章1節 エ.ロシア革命
第15章2節 ア.ヴェルサイユ体制とワシントン体制
第15章2節 エ.東欧・バルカン諸国の動揺とイタリアのファシズム
第15章5節 ア.ナチス=ドイツの侵略と開戦
書籍案内

山本俊朗/井内敏夫
『ポーランド民族の歴史』
1980年 三省堂選書

アンジェイエフスキー
井上洸訳
『灰とダイアモンド』
上 岩波文庫

アンジェイエフスキー
井上洸訳
『灰とダイアモンド』
下 岩波文庫
DVD案内

アンジェイ・ワイダ監督
『灰とダイアモンド』