印刷 | 通常画面に戻る |

1848年革命

1848年、自由主義を掲げ、憲法の制定などを求めたヨーロッパの一連の革命はウィーン体制を終わらせた。しかし、新たにブルジョワジーと労働者の対立という対立も明確になった。

 1848年はヨーロッパ各地で保守反動の君主制国家に対する、自由主義ナショナリズムの反乱が連鎖反応的に起こり、一挙にウィーン体制が崩壊した。フランスの七月王政を倒した二月革命、ウィーンとベルリンにおける三月革命、さらにメッテルニヒの失脚というオーストリア帝国の動揺に乗じた、その支配を受けていた諸民族の独立運動である、イタリアのマッツィーニによるローマ共和国の建国、ミラノとヴェネティアなどイタリアでの革命、またハンガリーの独立運動など、この年に起きた一連の革命を「1848年の革命」と総称する。この年の2月にマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』が刊行されている。

1848年

 19世紀のほぼ中頃にあたるこの年は、世界史上の重要なことが集中して起こっている。その同時性に注目しておこう。まず1848年革命といわれる一連のフランスにおける二月革命、プロイセンとオーストリアにける三月革命によってウィーン体制が崩壊した。それをうけてオーストリアとウィーン体制(神聖同盟)に抑圧されていた諸民族の独立運動が一斉に起こった。この自由主義・民族主義の高揚は「諸国民の春」と言われてた。フランスの二月革命はルイ=フィリップの七月王政を倒して第二共和政を実現させ、ドイツ連邦ではドイツ統一のためのフランクフルト国民議会の開催が実現した。

二月革命・三月革命

  • フランス フランスで二月革命がおこり、七月王政が倒れて第二共和政が成立した。臨時政府内でブルジョワ共和派と労働者の社会主義派の対立があり、四月普通選挙で勝利したブルジョワ派が国立作業場を廃止したことから労働者が六月暴動を起こし、それが鎮圧されたことで革命は後退した。12月にルイ=ナポレオンが大統領に選出される。
  • ドイツ連邦 続いてフランスの隣でドイツ連邦を構成していたオーストリア、プロイセンなどでも三月革命が相次いで起こる。まずオーストリア帝国の首都でのウィーン三月革命ではメッテルニヒが失脚し、ウィーン体制が崩壊し、さらにプロイセンの首都でのベルリン三月革命が勃発、国王はドイツの統一と憲法制定のためのフランクフルト国民議会開催を約束、普通選挙が行われて5月に開催された。国民会議はプロイセンの主張する小ドイツ主義とオーストリアの主張する大ドイツ主義が対立、まとまらなかった。

諸国民の春

  • ハンガリー オーストリア帝国の三月革命でウィーン体制の重しが崩れたためコシュートの指導するハンガリー民族運動が始まり、48年3月には独自の内閣をオーストリアに認めさせ、翌1849年には独立を宣言した。しかし、オーストリアはロシア軍の支援を受けて弾圧を強化し、8月に鎮圧された。
  • ボヘミア オーストリアに支配されていたボヘミア(チェコ)でもベーメン民族運動が活発になり、4月のボヘミア議会ではドイツ語とチェコ語の同権が確認された。しかし、6月のプラハの労働者蜂起はオーストリア軍によって鎮圧された。パラツキーはスラヴ人国家の連邦制を目指しスラヴ民族会議を開催したが、6月蜂起が弾圧されたため解散しなければならなかった。
  • イタリア まず1月にシチリア島のパレルモでナポリのブルボン王家の支配に対する暴動が起きて憲法の制定が認められると、各地に運動が飛び火した。オーストリアに支配されていたミラノヴェネツィアでも暴動が起き、それを受けてサルデーニャ王国がオーストリアと開戦(第一次解放戦争)した。さらに翌1849年、ローマでは市民が決起してローマ教皇を排除しローマ共和国が樹立された。亡命中のマッツィーニはローマに入り共和政政権に参加した。これらの動きはイタリア統一運動(リソルジメント)に大きな転換点となったが、いずれもオーストリア軍、フランス軍に鎮圧されて成果を定着されることはできなかった。
  • ポーランド ポーランドは中心部はロシアに支配され、その他をプロイセン、オーストリアに分割されていたため独立運動は困難だった。すでに1846年にクラクフ、ガリツィア地方で蜂起があったが鎮圧されていた。1848年にもポズナニに国民委員会が設立されたが、プロイセンによって鎮圧された。亡命ポーランド人はハンガリーやイタリアでの反オーストリア蜂起に参加して戦った。
 これらの諸国民の春といわれたヨーロッパの民族独立と統一を求める運動によってウィーン体制は崩壊し、歴史は大きく転換したが、いったん成立した共和政や諸民族の自立は、さまざまな内部対立とオーストリアやヨーロッパの憲兵と言われたロシアの介入で抑えつけられてしまう。

世界史上の1848年

フランス第二共和政 二月革命で倒れた七月王政に代わって成立した臨時政府にはブルジョワ共和派と労働者寄りの社会主義者ルイ=ブランなどが参加していた。しかしこの両派は早くも対立を深め、四月普通選挙で勝利したブルジョワ派は国立作業場の廃止に踏みきると、労働者は六月暴動を起こした。臨時政府は軍隊の力でそれを鎮圧、社会主義者は政権から除外された。これを機に革命は後退期に入り、年末12月に行われた大統領選挙では、ナポレオンの甥で、偉大なフランスの結節を訴えたルイ=ナポレオンが当選した。
イギリスの諸改革 一方、同じ時期のイギリスでは議会政治の発展の中で労働者の選挙権要求であるチャーティスト運動の最後の高揚を見せ、一方では1846年に穀物法廃止、49年の航海法廃止などによって自由貿易主義が勝利を占めている。
『共産党宣言』 ヨーロッパにおける1848年革命は、ウィーン反動期から資本主義の全盛期としての19世紀後半への転換点となったが、同時にヨーロッパ社会の新たな対立軸は、従来の絶対君主対市民ではなく、資本家階級と労働者階級という階級対立に移ったことを示している。同年に発表されたマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』は正にその転換点を示す記念碑的述作であった。
アメリカでの金鉱発見 1848年はアメリカ合衆国においても重要な年であった。まずアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)の結果、グワダルペ=イダルゴ条約が締結され、カリフォルニアとニューメキシコを獲得した。アメリカが獲得した新領土、カリフォルニア金鉱が発見され、それを契機として大規模な西部への人口移動であるゴールド=ラッシュが起こった。これは大西洋岸から太平洋岸に及ぶ北米大陸に巨大国家アメリカ合衆国が誕生したことを意味している。
植民地の拡大 同時に世界全体ではヨーロッパ資本主義諸国によるアジア、ラテンアメリカ諸地域への植民地支配の本格化とそれへの抵抗の始まりというテーマに移行していく。アジアではイランでバーブ教徒の反乱が起こっている。その前後に1840年のアヘン戦争、50年代の太平天国の乱アロー戦争、1857年のインド大反乱が起こったことを想起しよう。

革命の後退と19世紀後半の展望

 フランスで六月暴動が起こると、革命が社会主義の方向に向かうのを恐れた臨時政府は軍隊の力でそれを鎮圧された。これを機に、ヨーロッパの革命は後退期に入り、48年10月から49年6月までの間にプロイセンやオーストリアでも君主制が復活し、共和派など革命派は厳しく弾圧されることとなり、同時に国民国家の形成も遅れることとなった。
 フランスにおいても第二共和政はルイ=ナポレオンによって形骸化され、1852年にはナポレオン3世の第二帝政に移行する。またドイツにおいては、プロイセンによる統一が急速に進みビスマルク時代を迎え、一方のオーストリア帝国は多民族国家としての苦悩を深めていく。ウィーン体制から次第に距離を置くようになっていたイギリスは、一人、産業革命後の工業化にひた走り、海外植民地を拡大して繁栄を道を歩んでいく。そしてアメリカ合衆国は間もなく南北戦争の危機を克服し、大国への歩みを開始する。東ヨーロッパではロシアが大国化し、バルカン半島やアジアでの南下政策を強め、新たな脅威となり始めた。19世紀後半の欧米は、このような大国(列強)が競い合う時代となっていく。
印 刷
印刷画面へ