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ドストエフスキー

19世紀ロシアの小説家。『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』などで人間の根源的苦悩に迫っている。

19世紀文明批判

 ドストエフスキーは、1864年に発表した『地下室の手記』(1864)の中で、世間を避けて地下室にこもってしまった元小官吏の手記という形で、19世紀中ごろの世界について、次のように述べている。
(引用)試しにあたりを見回してみるがいい。血は河のように流れ、しかもまるでシャンパンのように、やけに陽気にほとばしっているではないか。これが、バックル(注・イギリスの歴史家。文明発展によって戦争はなくなると論じた。)も生きた我らが19世紀というものだ。ナポレオンはどうだ……大ナポレオンにしても、今のナポレオン(3世)にしても……。北アメリカも然り(注・南北戦争中であった)……永遠の連邦はどうなった。そして最後に、あの馬鹿げたシュレスウィヒ=ホルシュタイン問題の茶番まである……。これでいったい、文明が我々のどこを穏やかにしているというのだ? 文明が人間の中に育むものは、ただ感覚の多面性のみだ。それ以外には、まったく何一つない。そしてこの多面性の発達ゆえに、人間はおそらくは、血の中に快楽を見いだすなどということまで立ち至るであろう。いや、現に、それはもはや起こっていることじゃないか。最も洗練された殺戮者と言えば、ほぼ間違いなく最も文明化された紳士諸君であり、彼らはどうかすると、いかなるアッティラだろうとステンカ・ラージンだろうと、皆、裸足で逃げ出すほど手強い連中なのだ。(中略)以前の人間は、大量殺戮の内に正義を見ており、良心の呵責なしに当然殺してしかるべき相手を殺していた。ところが今の我々は、大量殺戮は忌まわしい行為である、と見なしていながら、そのくせ以前にも増して大規模にこの忌まわしい行為を営んでいるのだ。どちらのほうが質が悪いか? あんた方は自分で判断してもらいたい。クレオパトラは(ローマ史の例など持ち出して、失礼)、黄金のピンを自分の女奴隷の胸に突き刺すことを好み、奴隷たちの叫び声や痙攣に快楽を見いだしていたという。あんた方は、こう言うだろう。それは、どちらかと言えば野蛮な時代の話だと。だが現代もまた野蛮な時代なのだ。なぜなら、現代でもはやり、ピンは突き刺されているからだ。<ドストエフスキー『地下室の手記』1864 安岡治子訳 光文社新古典文庫 p.47-49>
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ドストエフスキー
安岡治子訳
『地下室の手記』
光文社新古典文庫