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シュレスヴィヒ・ホルシュタイン

デンマーク・プロイセン間の自治公国をめぐって両国が対立、1864年にデンマーク戦争の結果、大半がプロイセン領となった。1902年、住民投票で北シュレスヴィッヒがデンマーク領に戻り、現在の国境が画定した。

 シュレスヴィヒ・ホルシュタインはユトランド半島の基部(南ユトランド)にあたる地方で、デンマークとプロイセン両国の間にあり、デンマークに近い北部がシュレスヴィヒ、ドイツに近い南部がホルシュタインという地域に分かれていた。中世ではシュレスヴィヒがデンマーク王国に属し、ホルシュタインが神聖ローマ帝国に含まれていた。そのため、前者にはデンマーク系、後者にはドイツ系の住民が多かった。15世紀以降は両方ともデンマーク王国が領有してそれぞれ公国として自治を認め、連合君主国の形態をとった。
ホルシュタインの両属 しかし、シュレスヴィヒはデンマーク人が住民の多数を占めていたがホルシュタインは住民の多数がドイツ人であり、しかもホルシュタインはドイツ連邦にも加わっていた。つまり、ホルシュタイン公国は、デンマーク王国と同君連合でありながら、ドイツ連邦の一員でもあるという両属の関係にあった。意識としてはドイツへの帰属意識の方が強かった。

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題

デンマーク戦争
武田龍夫『物語北欧の歴史』p.106を参考に作図

デンマーク戦争
 デンマーク王国の領土は、ホルシュタイン公国を含み、図ⓐより以北であった。ただし、ホルシュタインはドイツ連邦にも属していた。つまり、ドイツ連邦の北限が図ⓑであったが、この段階ではドイツ連邦は単一の主権国家ではなく、ドイツという統一国家があったわけではない。シュレスヴィヒ公国は南部と北部の違いがあり、北部はデンマークへの帰属意識が強かった。
 19世紀のナショナリズムの風潮の中で、これらの地域、特にホルシュタインのドイツ系住民がデンマークからの分離独立を要求するようになった。それに対してデンマーク王国は中世以来、シュレスヴィヒとホルシュタインは一体であることを宣言していたが、さらにデンマーク王国憲法を制定して、両公国にも適用しようとした。1848年革命が全ヨーロッパに広がるなか、シュレスヴィヒ・ホルシュタインでもドイツ系住民がデンマークからの分離を求めて決起し、臨時政府を樹立した。プロイセンは反乱を支援して出兵し、デンマーク軍を破ったが、ロシア・イギリス・フランスがデンマーク支援に回ったため、プロイセンは休戦に応じた(第1次デンマーク戦争とも言う)。
 1852年、ロンドン会議でロンドン議定書が成立、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国は一体となりデンマーク王国のもとに独自の自治行政権ともつことで合意が成立し、デンマーク憲法は両国を除きデンマーク本土だけに適用するとなったのでプロイセン軍が撤退、紛争は一旦収まったが、双方に不満が残ることとなった。

デンマーク戦争

 デンマークは1863年に新国王が即位すると両公国の結合を否定し、憲法をシュレスヴィヒに適用することを宣言た。それに対して、プロイセン王国ビスマルクは、デンマークのロンドン議定書違反であるとして、1864年2月にドイツ連邦(1851年に復活)として共同行動を取りオーストリアとともにシュレスヴィヒに侵攻、短期間でデンマーク軍を追いつめ、ユトランド半島を制圧した。これがデンマーク戦争(第2次シュレスヴィヒ戦争ともいう)である。
 その結果、1864年10月30日、ウィーンで講和し、デンマークはホルシュタインだけでなくシュレスヴィヒも含めて放棄し、ドイツ連邦のプロイセン・オーストリアに引き渡した。これによって、デンマークは国土全体の40%を失った。このときの国境となったのが図ⓔである。

プロイセンとオーストリアの対立

 その後、1865年に、プロイセンとオーストリアはガシュタイン条約を締結し、シュレスヴィヒはプロイセンが、ホルシュタインはオーストリアがそれぞれ分割統治することとなった。プロイセンのビスマルクは、ホルシュタインという自国に近接する地域を併合することを狙い、オーストリアとの対決姿勢を強め、1866年の普墺戦争を引き起こし、プラハ条約でホルシュタインを領地とすることに合意させ、ついにシュレスヴィヒ・ホルシュタイン全域がプロイセン領となり、間もなく1871年成立のドイツ帝国の一部となる。
 デンマークはデンマーク戦争で南ユトランドを放棄することとなり、かつて大国であったことからの転換に迫られた。そこで「外で失ったものはうちで取り戻そう」というスローガンで狭いながらも国土の改良を進めて生産力を上げることに努めることとなった。

北シュレスヴィヒの住民投票

 第一次世界大戦ではデンマークは中立を守り、ドイツの敗北と戦後の民族自決の気運の高まったことで回復の機会が回ってきた。ドイツ領であったシュレスヴィヒでは一部デンマークに戻され国境は図ⓓとなっていたが、北部にはデンマーク人が、南部にはドイツ人が多いという分布だったので、国民投票によって線引きして帰属を決めることとなった。1920年に住民投票が実施されて新たに国境線(図ⓒ)が設定され、北シュレスヴィヒはデンマーク、南シュレスヴィヒはドイツに帰属して問題が解決した。この国境は現在まで続いており、ドイツ側はシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州(州都キール)となり、デンマーク側は南ユトランド(デンマーク語ではユランと発音)と言っている。完全な棲み分けは不可能であるが、現在はEUが成立し、シェンゲン協定で事実上国境がなくなったため、かつてのような帰属をめぐる紛争は回避されている。
※ホルシュタインというと、日本では「ホルスタイン」という白黒ブチ模様の乳牛を思い出す。これはシュレスヴィッヒ・ホルシュタインからオランダにかけて、ゲルマン人の大移動時代から飼われていたらしい。必ずしもホルシュタインの固有種ではなさそうだ。
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書籍案内

武田龍夫
『物語北欧の歴史』
1993 中公新書