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クレオパトラ

プトレマイオス朝エジプトの最後の女王。ローマのカエサルと結び支配権を握り、その死後はアントニウスと結んだが、前31年にオクタウィアヌスのローマ海軍とのアクティウムの海戦に敗れ、翌年自殺した。これによってプトレマイオス朝は滅び、ローマの地中海支配が完成した。

クレオパトラ

ミケランジェロの描いたクレオパトラ
フィレンツェ・ウフィッツィ美術館蔵
ブノワ・メシャン『クレオパトラ』より

 前1世紀中ごろ、プトレマイオス朝エジプトの女王で、正式にはクレオパトラ7世という。プトレマイオス朝はヘレニズム国家であるから、クレオパトラはエジプト人ではなく、マケドニア系のギリシア人。プトレマイオス朝エジプトはローマの勢力が東地中海におよぶなか、ヘレニズム諸国の一つとして存続を維持していたが、次第にその圧力に苦しむようになっていた。クレオパトラは、ローマの有力者の争いを利用してその存続を図ったが、カエサルやアントニウスとの過度な結びつきは、かえってローマにエジプト征服の口実を与えることになり、プトレマイオス朝の滅亡という事態を招くこととなった。

カエサルとの結びつき

 第1回三頭政治が崩れ、カエサルは有力な敵対者ポンペイウスをローマから追い出した。前48年、ファルサロスの戦いで敗れたポンペイウスはさらにエジプトを目指したが、アレクサンドリア(エジプト)上陸を前にして、プトレマイオス13世の配下に謀殺されてしまった。
 当時、プトレマイオス朝では、プトレマイオス13世とその姉のクレオパトラ7世との間に対立が生じていた。プトレマイオス13世が幼少であることにつけ込んだ宦官や王の教師たちなどの廷臣が実権を握ったことに対し、姉のクレオパトラが反発したが、かえって追放状態に置かれていた。廷臣グループはポンペイウスを謀殺してカエサルの歓心を買おうとしたのだったが、10月にアレクサンドリアに上陸したカエサルは好敵手ポンペイウスをだまし討ちにした廷臣たちに不信を感じた。そこに廷臣の目を盗んだクレオパトラがカエサルとの密会に成功、カエサルを見事に味方にしてしまった。

Episode クレオパトラの奇計

 クレオパトラが絨毯にくるまって廷臣の目を欺し、カエサルの前に現れ、たちまちその心を虜にしてしまった、という話はシェークスピアの芝居やエリザベス=テーラーの演じた映画、はたまたブノア=メシャンの評伝でも描かれて、有名なシーンだが、プルタルコスではごく簡単にこんな風に伝えている。
(引用)そこでクレオパトラは、腹心のなかからシシリーの人アポロドロスのひとりだけを伴って小舟に乗り込んで、あたりが暗くなったころ王宮に舟をつけた。しかも、他に人目を忍ぶ手立てもなかったので、寝具袋にもぐりこんでその身を長くのばし、アポロドロスがその袋を革紐でしばって、戸口からカエサルのもとに運び入れた。カエサルがこの女性の虜になってしまったのは、蠱惑的な姿であらわれるというクレオパトラのこのまず第一の術策のためであったといわれている。<プルタルコス/長谷川博隆訳『プルタルコス英雄伝』下 カエサル伝 ちくま学芸文庫 p.240>

クレオパトラ7世

 カエサルはクレオパトラの訴えを聞いて、プトレマイオス13世との和解を仲介した。しかし和解になるとクレオパトラが宮廷に戻ることになるので、実権を失うことを恐れた廷臣たちはアレクサンドリアのカエサルとクレオパトラを襲撃する。この前48年の戦争は、アレクサンドリアの市外に戦火を及ぼし、ムセイオンが焼失して、アレクサンドロス大王以来の貴重な文献の多くが失われた。カエサルは無勢であったので苦戦したが、エジプト軍も統制がとれておらず、プトレマイオス13世も戦死し、カエサルの勝利となった。カエサルはアレクサンドリアを平定し、前47年、クレオパトラを女王(7世)としもう一人の弟プトレマイオス14世を名目上の夫として共同統治にあたらせることとした(プトレマイオス朝の伝統で女王は兄弟の王と結婚しなければならなかった)。
 カエサルはクレオパトラの後見人として実権を握り、また愛人として宮廷生活を送る。二人の間には一子カエサリオンが生まれた(カエサルの実の子では無い、との説もある。またカエサリオンは後にオクタウィアヌスに殺されてしまう)。

Episode カエサルとクレオパトラのナイル巡幸

 カエサルがエジプトにいる間に最も人々を驚かしたのが、女王クレオパトラとともにナイル川巡幸を行ったことであった。二人を乗せた船は豪勢をきわめ、約400隻の船を引き連れた「浮かぶ宮殿」さながらにて上ナイルの古都テーベや、カルナック神殿、ルクソールなどのファラオの栄華を目の当たりにしてアスワンの第一瀑布まで遡った。
(引用)シーザーとクレオパトラは絹の長椅子に屈託なく身を横たえ、緋色の掛布で陽射しをさえぎり、酒杯を傾けながら涼をとったが、酌人はすぐに砕き氷と香しい飲物を盃に満たしてくれていた。その間に、王室の船は竪琴の音と漕ぎ手の唄にゆられながら、旅を続けた。男女の神官たちの行列がいくつも神殿から出てきて、女王に礼拝を捧げたいと近くまでやってきた。クレオパトラはアレクサンドリアでこそ笑いを絶やさない、快活なマケドニアのお姫様にすぎなかったが、ここではかのイシスの神の化身だったからである。……どの停泊地でも神殿の祭司たちがやってきて、女王の前にひれ伏し、いと高き神のみ恵みを頭上にふりかけ給えとお願い申し上げた。かくして船旅は町から町へ、祭殿から祭殿へと、神々の結婚をとり行うのにふさわしい燃えるような熱気のうちに、ゆっくりと、また荘重に進んでいった。<ブノア・メシャン/両角良彦訳『クレオパトラ――消え失せし夢』1979 みすず書房 p.121>
 ブノア・メシャンは『クレオパトラ』で、このナイルの船旅はクレオパトラにとってカエサルの愛をつなぎ止めておくための計画であったが、もうひとつの意味するものは、「共和政のこの独裁者を、東洋の神政権の宗儀と威容に開眼させることだった」と言っている。<ブノア・メシャン『同上書』 p.118>
クレオパトラの夢 クレオパトラは、カエサリオンが生まれた後、かつてカエサルと共に参拝したテーベの近郊デンデラにハトホル神殿を建て、神々にカエサリオンをエジプトの王と認めて貰おうと、その壁面に自らとカエサリオンの姿をレリーフに描かせた。今も残るデンデラの神殿に、はかなく消えたクレオパトラの夢が描かれている。それはカエサルの後継者であると同時に将来のファラオであるカエサリオンが、やがてその双方、つまり世界帝国に君臨し、自らはその国母となる……という壮大な夢であった。 → テーベの項の「クレオパトラの夢」を参照。
 『クレオパトラの夢』というと、最近は売れている推理小説の題名になっているそうですが、中高年のジャズ好きには、まずバド・パウェルのピアノが思い出されます。1958年のLP「シーンチェンジズ」の1曲目に入っていて、日本のジャズファンの心をとらえた曲です。パウェルが何故こういう題にしたのか判らないので、世界史学習とは関係ありませんが、ジャズを知らない人も、こんな曲があるのかと思うかも知れません。勉強の合間に聞いてみたらどうかな。 → YouTube “Cleopatra's Dream"

クレオパトラ、ローマへ

 カエサルのアレクサンドリアでのクレオパトラとの生活は9ヶ月に及んだ。彼はいつまでも続けたいと思ったであろうが、その留守中のローマでは従軍の報酬をまだ受けとっていない兵士の不満が強まり、カエサルへの非難が高まっていた。また各地のポンペイウス派の残党の動きが再び強くなっていた。さすがにカエサルはローマへの帰還の声に応えて出発しなければならなくなった。前47年6月、嘆き悲しむクレオパトラをあとに、カエサルは小アジアのポントス王などを討ってローマにもどり、さらに北アフリカのポンペイウス派の残党を打ち破って、翌年ローマで凱旋式を挙行、そのとき約束通り、クレオパトラをローマに呼んだ。しかし、正妻のカルプルニアがいるのでティベル川の河畔に屋敷を与えて住まわせた。

アントニウスとの結婚

 前44年、カエサルが暗殺されると、クレオパトラは自らも暴徒に襲われる危険を感じ、ただちにローマを離れ、アレクサンドリアに戻った。カエサリオンを共同統治者としてエジプトを統治したが、その権力は不安定だった。カエサル死後、その部将アントニウスは、カエサルの養子オクタウィアヌスと激しく権力を争うなかで、パルティア遠征を成功させて名声を高めようとした。パルティアとの戦いを有利に進めるため、プトレマイオス朝エジプトの協力を得ようとして、前41年、小アジアのキリキアのタルソスで女王クレオパトラと会見した。クレオパトラはあらたな保護者としようと、アントニウスを誘惑し、その意の通りに彼を操ることに成功した。
 前37年秋、パルティア遠征に向かうアントニウスは、シリアのアンティオキアでクレオパトラと協定を結び、正式に結婚し、全東方のアウトクラトル(絶対支配者)と称することなどを約束、翌年、パルティア遠征を開始した。クレオパトラも同行したがアルメニア国境で妊娠していることに気づき、アレクサンドリアに戻った。前35~34年、アントニウス軍はアルメニア攻略には成功し、続いてパルティアとの戦いにいどんだアントニウスだったが、その激しい抵抗に遭い、命からがらシリアに逃れてクレオパトラに助けられてアレクサンドリアに逃れる始末だった。
 アントニウスがアレクサンドリアでのクレオパトラとの生活に熱中する間、ローマではオクタウィアヌスが次第に有力となっていった。クレオパトラはカエサルの養子であるオクタウィアヌスが権力を握れば、我が子カエサリオンの立場は悪くなると考え、アントニウスに迫ってその妻オクタウィア(オクタウィアヌスの姉)と離婚させた。アントニウスとの間には、一組の双子とひとりの女の子の3人の子をもうけた。

アクティウムの海戦

 アントニウスにオクタウィアヌスとの決戦をけしかけたが、なかなか動かなかった。そうするうち、前34年にアントニウスが東方の属州の統治権をクレオパトラに与えたという報せがローマにはいると、オクタウィアヌスはアントニウスとクレオパトラを討伐する口実が得られたとして、海軍の派遣を決定した。アントニウスとクレオパトラはオクタウィアヌスのローマ軍を迎えるために本営を小アジアのエフェソスからギリシアのアテネ、さらにアドリア海に面したアクティウム近くに移した。こうして前31年アクティウムの海戦が行われたが、機動力に勝るローマ海軍が、エジプト海軍を破り、アントニウス・クレオパトラ連合軍は敗北した。

自殺とプトレマイオス朝の滅亡

 アクティウムの海戦に敗れたアントニウスとクレオパトラは、別れ別れになってアレクサンドリアに戻った。アントニウスはクレオパトラの裏切りを疑って自らの命を絶つ。クレオパトラは、なんとかオクタウィアヌスに助命を願おうと誘惑したが、オクタウィアヌスはその誘いに応じず、彼女を監禁する。クレオパトラはすでに41歳、もはやオクタウィアヌスを籠絡するのは無理とさとり、また生きて降伏すれば、ローマで見せしめとして引き回されることを恐れ、かねて用意していた毒蛇に胸を咬ませて自殺した(前30年)。その死体はオクタウィアヌスによって、アントニウスと並んで埋葬された。
 アクティウムの海戦でエジプトが敗れた前31年は、前331年のアレクサンドリアが建設されてからちょうど300年目にあたっていた。これによって、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、ローマの地中海支配は完成した。また、プトレマイオス朝エジプトの滅亡はヘレニズム時代の終わりも意味していた。

Episode クレオパトラの毒蛇

 クレオパトラが、いざという時に備えて蛇の毒の効き目を実験していたことが、プルタルコスによって伝えられている。
(引用)クレオパトラはさまざまな致命的な効きめのある毒薬を集めて、そのひとつひとつの苦痛のない作用を試すために死刑囚に服用させた。ところですぐに死ぬ毒薬は苦痛によって死に方が激しく、他方穏やかな毒薬は時間がかかるのを見て、毒をもつ動物が互いに咬み合うところを実験し、自分で観察した。それを毎日行っているうちに、ほとんどすべての中で、アスピスという蛇が咬んだのは、痙攣や苦悶を引き起こさず、睡眠と顔の軽い発汗をもたらすだけで、感覚が容易に麻痺して減退し、あたかも熟睡している人の場合のように、呼び起して目覚めさせることが難しくなるということを発見した。<プルタルコス/秀村欣二訳『英雄伝』下 アントニウス伝 ちくま学芸文庫 p.424>
 プルタルコスがアスピスと言っている毒蛇は、マムシといわれたり、エジプト・コブラだとも言われている。<吉村作治『クレオパトラの謎』1983 講談社現代新書 p.205>

参考 クレオパトラが媒介したこと

 カエサル(シーザー)にとって、そしてローマ世界にとって、クレオパトラと邂逅したことには、どのような意味があるのだろうか。フランスの評伝作家ブノア・メシャンは、次のよな三つの意味があったと説明している。<ブノア・メシャン/両角良彦訳『クレオパトラ――消え去りし夢』1979 みすず書房>
  • カエサルと東方世界との媒介者であったこと。 ローマはその勢力を広げるにつれて、小アジア諸国やアルメニア、パルティアと接触した。しかしそれらはいずれも軍事的征服活動であった。カエサルははじめてプトレマイオス朝の女王クレオパトラとともにエジプトを統治した。これによって共和政ローマの統治者が、はじめて東洋的な、神権政治的な、東方世界を知ることとなった。その象徴が二人のナイル川巡幸であった。また、ローマにローマの神々と東方の神々の交わりが始まった。<p.91~p.96>
  • カエサルが築こうとしていたローマ帝国と、クレオパトラが後継者であると自負しているアレクサンドロス帝国とを媒介したこと。 カエサルは若いときからアレクサンドロスを追慕していた。彼の東洋への扉を開いてくれたクレオパトラは、大王の部将の中で最も勢威のあったプトレマイオスの子孫であった。ローマの覇権を握ったカエサルの次の目標は、アレクサンドロスに倣い、ペルシアの地、つまりパルティアを征服し、さらにインドを征服することにあった。<p.123~p.133>
  • カエサルと神々の間の絆としての役割を果たしたこと。 その昔、アレクサンドロス大王がアモン神殿の大神官から教えられたように、カエサルに君主制の神聖な性格を啓示してくれたのはクレオパトラだった。双方ともに、刺激はエジプトからもたらされており、まさしくカエサルがアレクサンドリアでの滞在から持ち帰った最大の収穫がこれである。プトレマイオス朝もギリシア人の王朝として初めはおのれを神として崇めさせることにためらっていたが、知らず知らずに、エジプトの宗教的習俗に同化していた。カエサルはローマの完全な支配権を握り、パルティアを征服した暁には「神」として崇められても不思議はないと考えた。<p.137.p.140>

Episode クレオパトラの鼻

 カエサルやアントニウスを惑わしたその美しさは、中国の唐の楊貴妃と並び称されている。また、17世紀フランスの数学者、物理学者にして哲学者であるパスカルが
「クレオパトラの鼻がもうすこし低かったら、大地の表面は変わっていただろう」
と『パンセ(瞑想録)』に書いたこともあまりにも有名である。
 実際、クレオパトラが美女であったことは間違いないだろうが、プルタルコスなどを読むと、彼女は表面的な美貌でカエサルやアントニウスを虜にしたのではなく、その機転の利いた会話(あらゆる言葉に通じていた)や、人の心をとらえる話術などに優れていたようだ。また、行動力があり、判断が速く、時に軍隊の先頭に立っても兵士たちを鼓舞して導く力があった。昔見た映画『クレオパトラ』でのエリザベス=テイラーがあまりにも強烈だが、ブノワ=メシャンのような観点から考えてみると、世界史上の重要な意味のある女性であることが判る。

発見されたクレオパトラの宮殿

 1996年、アレクサンドリア港内の海底から、クレオパトラが生きていたころのプトレマイオス朝エジプトの宮殿跡が発見された、というニュースが世界を駆け回った。クレオパトラの宮殿がアレクサンドリアの港に突き出たロキアスという半島に築かれていたことは、クレオパトラ死後間もないころアレクサンドリアを訪れたギリシアの地理学者ストラボンの著作にも見えているが、それらは紀元後5世紀ごろの大地震で、旧市街とともに海中に没してしまった。その後、アレクサンドリア港が商業港として発展したため、海底には長年のヘドロやコンクリートブロックが堆積し、その存在は幻となっていた。
 世界的な水中考古学の研究技術が進んだ1980年代にフランスの海洋考古学者フランク=ゴッディオのチームが探索を開始、ヘドロが溜まり、視界が悪い水深6mの海底に広さ260平方キロにわたって台地上の宮殿跡があることが判った。次々と建材や彫像、柱材などが見つかり、研究の結果、前2~前1世紀のプトレマイオス朝時代の宮殿跡であることが判った。クレオパトラの遺品と断定できる物は見つかっていないが、女王が起居していた宮殿であることは間違いないと思われる。<井上たかひこ『水中考古学―クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで』2015 中公新書 p.93-106>
 クレオパトラはアントニウスと共にアレクサンドリアに埋葬されたことになっているが、残念ながらその墓はまだ見つかっていない。アレクサンドリ港の調査はまだ続いているということなので、いつの日か、クレオパトラの墓発見!というニュースが飛び込んでくるかも知れない。
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書籍案内

プルタルコス
/村川堅太郎他訳
『プルタルコス英雄伝』下
ちくま学芸文庫

手軽に読める原典の訳本として面白いこと請け合い。アントニウスとオクタウィヌスの章にクレオパトラが詳しく描かれている。

ブノワ=メシャン
/両角良彦訳
『クレオパトラ
―消え失せし夢』
1979年 みすず書房

クレオパトラ自身よりも、カエサル・アントニウス・オクタウィアヌスの三人を考察している。

吉村作治
『クレオパトラの謎』
1982 講談社現代新書

古い本だがエジプトの歴史の中のクレオパトラを知る上では好著。

井上たかひこ
『水中考古学
―クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで』
2015 中公新書

クレオパトラの宮殿など、最近のアレクサンドリアの発掘に関する情報を知ることができる。

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映画『クレオパトラ』

監督ジョセフ=L=マンキーウィッツ。主演エリザベス=テイラー、リチャード=バートン、レックス=ハリスン 4時間を越える大作。ローマの歴史物の白眉。