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南北戦争

1861~65年、アメリカ合衆国が南北に分かれて戦った戦争。主な争点は黒人奴隷制度の存続をめぐってであったが、産業構造の違い、連邦制の性格などをめぐる対立もあった。4年にわたる激戦の結果、北軍が勝利し、南部の分離は実現せず、アメリカは統一国家として存続し、19世紀後半に工業化を軸とした大国として成長する基盤が築かれた。

 1861年に起こったアメリカ合衆国(USA)とそこから分離したアメリカ連合国(CSA)と間の戦争。アメリカを北部南部に分断した内戦であるが形式的には二国間の戦争であった。アメリカ史ではthe Civil War(内乱の意味)と言われる。建国以来の南部と北部の地域的性格の違いに、黒人奴隷制問題が加わり、西漸運動で西部に新しい州が出来るに従い、自由州と奴隷州のいずれにするか、ぬきさしならぬ対立に至った。4年にわたる戦闘の結果、北部が勝利したことによって、産業資本を中心とした近代国家としての統一は保たれ、また奴隷制廃止によって市民社会としての体裁が整えられた。しかし、南北の対立、黒人差別問題はその後もアメリカ合衆国の抱える最大の問題として継承されることとなる。

アメリカの南北対立

 アメリカ合衆国は、独立以来、その領土を西部に広げるとともに、次第に北部と南部の基幹産業のありかたの違いからくる主張の対立が次第に明確になっていった。アメリカの南北対立は、次のように要約することができる。
・地域と人口 南部:11州 人口 白人550万人・黒人350万人の900万。北部(境界州含む):23州 人口2200万人。
・産業 南部:奴隷制綿花プランテーションを中心とした農業地域。北部:商工業を中心に発展。
・政治体制 南部:連邦政府の権限を制限し、州の自治権を拡大する反連邦派に近い。北部:連邦政府の権限を拡大し統一を強める連邦派にちかい。
・貿易政策 南部:主産物の綿花の輸出を増やすため自由貿易を主張。北部:イギリス製工業製品と競争するため保護貿易を主張。
黒人奴隷制 南部:綿花プランテーションを維持するためには奴隷制は必要と主張。北部:奴隷制拡大に反対し、労働力・購買力として期待。

黒人奴隷制をめぐる対立

 連邦議会においては、黒人奴隷制をめぐる対立が当初から激しかった。特に領土が西部に拡大して新しい州が成立したとき、自由州にするか奴隷制にするかで対立が深まった。1820年には妥協点としてミズーリ協定が成立、北緯36度30分以北には新たな奴隷州は造らないことが取り決められた。しかし、アメリカ=メキシコ戦争によって獲得されたカリフォルニアが自由州となると、南部は対抗して逃亡奴隷法を制定させ、黒人の解放運動を厳しく取り締まろうとした。そのころ『アンクル=トムの小屋』が発表されて、北部では奴隷制に批判が強まったが、南部を基盤とした民主党が運動して、1854年にカンザス・ネブラスカ法を成立させ、奴隷州か自由州かの選択を住民に任せると事とし、ミズーリ協定を廃棄に追いこんだ。このことに反発した北部には共和党が結成され、両者の対立は次第に緊迫していった。さらに最高裁のドレッド=スコット判決がミズーリ協定を憲法違反とする判決が出たことは奴隷制反対派の憤激を買い、ジョン=ブラウンの蜂起などが起こった。

リンカンの当選と南部の分離

 1860年の大統領選挙で奴隷制度拡大反対を掲げる共和党リンカンが当選すると、南部諸州の反発が強まり、12月に連邦離脱を決定した。翌1861年、リンカンが大統領に就任、それに対抗する形で南部諸州はアメリカ連合国を成立させ、ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。リンカンは、南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となった。南部諸州は、綿花輸出先のイギリスと、ナポレオン3世のフランスの支援を期待していた。
南北戦争開戦時のでの対立
北部の連邦諸州(自由州) メイン、ニューハンプシャー、ヴァーモント、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネティカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、オハイオ、ミシガン、インディアナ、イリノイ、ウィスコンシン、アイオワ、ミネソタ、カンサス、オレゴン、カリフォルニア
南部のアメリカ連合国加盟(奴隷州) サウスカロライナ、ミシシッピー、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサス、ヴァージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソー
境界州 奴隷州であったが北部との結びつきが強く、中立策をとった、デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ、ウェストヴァージニア(1861年にヴァージニアから分離、63年に州昇格)

戦争の経過

 1861年4月13日、南軍が北軍のサムター要塞を攻撃して戦争が始まる。はじめは、騎馬の戦闘力に長ける南部人を組織し、リー将軍などの有能な指揮官がいたので南軍が軍事的に優勢であり、イギリス・フランスも南軍に肩入れし、北軍は押されていた。戦争は合衆国からの分離をめざす南部諸州と、連邦国家としての統一を維持しようという北部リンカン政権の戦いとして始まったが、リンカン大統領にとって大義ある戦争目的に欠けるところがあり、イギリスやフランスが南部を支持する動きがあることが懸念材料であった。
戦争目的の転換  1862年9月、リンカンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、南部諸州に対して黒人奴隷を解放を迫った。さらに、翌63年1月に本宣言を出して、戦争の目的を黒人奴隷制度の廃止にあることを明確に示した。これによってイギリス、フランスなどの国際世論は北部に理があるとして支持に転換した。また、62年にはホームステッド法を施行して西部の農民の支持を受けて、さらに北部工業地帯の経済力を生かして次第を挽回し、1863年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が大勝、最後は北軍のグラント将軍が南軍のリー将軍を降服させ、1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落して戦争は終結した。

南北戦争の死者

 南北戦争は1861年4月に始まり、65年4月まで4年間続き、その間、大きな戦闘が約50回、小さな戦闘は無数にあった。両軍併せて61万8千人、北軍は36万人、南軍が25万8千人の戦死者であった。62万に近い死者の数は、第一次世界大戦の約11万、第二次世界大戦の約32万と比べてあまりも大きい。アメリカが体験した戦争の中でもずば抜けて大きな犠牲者の数であった。<猿谷要『物語アメリカ史』p.99>

戦争の意義

 建国以来の南北の地域的対立、連邦政府に対する州の独立性の強さ、などの国家としての弱点から起こった戦争であったが、それが北部の勝利という形によって克服されたことによって、何よりもアメリカ合衆国の統一が維持強化されたこと、また国家の経済基盤が北部中心の工業力に移り、戦争前から始まっていたアメリカの産業革命がさらに進展することとなった。最大の争点であった黒人奴隷制度は廃止されるという大きな前進がもたらされたが、現実には新たな黒人差別問題の出発点ともなった。いずれにせよ、南北戦争はアメリカ合衆国という大国の成立、その工業化による繁栄と多人種国家としての苦悩の出発点であった。南北戦争のアメリカ合衆国が、19世紀末から20世紀にかけて世界に大きな存在となっていく。
(引用)南北戦争は、アメリカ史上最大の犠牲をもたらした戦争であった。また、中国での太平天国の乱(1851~64)と並んで、19世紀最大の戦争であった。・・・アメリカが分裂の危機に陥ったこの戦争を乗り越えて、ようやく本格的な国民意識が芽生えた。この戦争以前は、アメリカ人も外国人も、この国を「The United States are ....」と複数形で呼んでいたという。戦後は、これが単数形になるのである。以後、1960年代に国家としてのアイデンティティーが大きく動揺するまで、アメリカ史は1世紀にわたってナショナリズムの時代を過ごした。いわば思春期である。<村田晃嗣『アメリカ外交 希望と苦悩』2005 講談社現代新書 p.62-63>

南北戦争後のアメリカ

 奴隷解放宣言に続き、1865年に議会で憲法修正第13条が成立して黒人奴隷制の廃止が確定した。南北戦争で北軍が勝利した直後にリンカンは暗殺されたが、戦後は共和党に主導された議会は南部諸州に対し、連邦軍を駐留させ、南部諸州の「再建」の条件として奴隷制廃止の憲法修正の批准をせまり、それに従って次々と南部諸州の復帰が実現した。その過程で、憲法修正第14条では黒人の市民権が承認され、さらに憲法修正第15条で黒人投票権が承認された。
戦後の黒人差別 しかし、解放された黒人は経済的に自立することは困難であったため、シェアクロッパー(小作人)という状態に置かれ、貧困が続くこととなり、平等な世界を一気に実現することはできず、黒人差別は根強く残るりクー=クラックス=クランによる迫害も頻繁に起こった。1877年に連邦軍の南部からの撤退を機に、南部諸州では事実上黒人投票権は制限され、黒人取締法が制定され、黒人は自由ではあるが社会的には差別されたジム=クロウと呼ばれるようになり、1896年には最高裁判所が黒人分離政策は合法であると判定されるに至る。このような黒人差別が法的に改称されるのは、南北戦争から約百年後の1964年に公民権法が成立するまで待たなければならなかった。また、2008年はオバマが黒人として初めて大統領に選出されるまでに至ったが、現代もなお人種問題はアメリカ合衆国の深刻な病巣となっている。

南北戦争と世界

 フランスのナポレオン3世が、南北戦争の勃発に乗じて、メキシコに出兵した。メキシコではフアレスを中心とした自由主義者による抵抗が強く、ナポレオン3世の野望はくじかれ、それをきっかけに第三帝政は下り坂となり1870年の普仏戦争で崩壊する。
 そのころイタリアではイタリア統一の動きが進み、1861年、ヴットリオ=エマニュエレ2世を国王とするイタリア王国が成立した。同じ年、ロシアでは農奴解放令が出されている。
 南北戦争はアジアにも影響を及ぼしている。南北戦争でアメリカの綿花輸出がストップしたため、インドのイギリス向け綿花生産は急増した。清では前年にアロー戦争が終わり、太平天国の乱が続くなかで西太后がクーデタで権力を握った。1853年、日本の開国を主導したアメリカだったが、南北戦争のため、いったんアジアから後退し、代わってイギリスの日本への進出が強まる。日本は開国後の輸出超過が物価高騰を招き、攘夷事件がさかんに起こって幕末の混乱が深刻化していった。
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ノートの参照
第12章3節 イ.南北戦争
書籍案内

猿谷要
『物語アメリカの歴史
超大国の行方』
1991 中公新書

青木冨貴子
『風と共に去りぬ』のアメリカ
―南部と人種問題―
1996 中公新書
DVD案内

『風と共に去りぬ』
出演:V.リー/C.ゲーブル
監督:V.フレミング

1936年に発表されたマーガレット=ミッチェルの小説を39年に映画化、アカデミー作品賞などを受賞し大当たりした。南北戦争で翻弄された南部プランターの娘スカーレット=オハラの物語。特に後半で戦後の南部社会が描かれている。黒人の描き方など問題は多いが、第二次世界大戦前の1939年に作られたとは思えない、総天然色の素晴らしい画面を楽しむだけでもよい。


『グローリー』
出演:D.ワシントン/M.ブローでリック
監督:E.ズウィック

南部を脱走した黒人奴隷が志願して北軍の最初の黒人部隊を編成する。その苦難を描いて、1989年アカデミー賞3部門で入賞した作品。南北戦争を描いた映画としては異色。