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パシュトゥーン人

アフガニスタンの主要民族。ドゥラーニー朝アフガン王国を建設。現在もアフガニスタンでの多数民族であるが、同時に国境を越えたパキスタン側にも多数居住している。

 現在のアフガニスタンを構成する民族の中で、多数を占め、最有力なのがパシュトゥーン人であり、その一部族アブダリ族の族長が1747年にイランの支配から自立し、ドゥッラーニー朝アフガン王国を建国した。ドゥラーニー朝は都をカーブルに置き、ペシャワール(現在はパキスタン)を冬の都とした。18世紀末になるとドゥッラーニー朝は内紛から衰退が始まり、1826年にはムハンマドザーイー朝(バーラクザーイー朝とも言う)に交替した。<渡辺光一『アフガニスタン-戦乱の現代史』岩波新書 2003>

パシュトゥーン人の分布

 アフガニスタンで最も人口の多いパシュトゥーン人は一般にアフガン人ともいう。彼らは人種・言語的にはインド=アーリア系に属し、前2000年頃西アジアから移動してきて、そこにイラン人やモンゴル人の血が流れこんだ。彼らはアフガンとパキスタンの国境線付近の山岳地帯を有効に使い、外敵の圧力に耐えてきた。かつてこの地を支配しようとしたイギリスは彼らを「パターン」と呼び、「山の民」と定義した。現在はアフガニスタンの平野部にも広がっているが、国境を越えたパキスタンにも約600万人※が住んでいる。スレイマン山脈の西側、つまりアフガニスタン国内に住む集団には「ドゥッラーニー」と「ギルザイ」という二つのグループがある。山脈の東側、つまりパキスタン国内にはペシャワール周辺の平野部に定着している集団と、山岳部に住む集団に分けられる。さらに居住地域、方言、指導者の家系などによって40以上の集団に細分化される。このようにパシュトゥーン人はアフガニスタンとパキスタンの国境線をはさんで居住しており、そこにあとから国境がひかれ人為的に分断されてしまった。<渡辺光一『同上書』 p.22>
※パシュトゥーン人 パキスタンにスンできるのが約600万人というのは2003年ごろ。現在はパキスタン全体が急激に人口が増加しており、パシュトゥーン人は6000万ぐらいになっていると思われる。
分断されたパシュトゥーン人 この後から引かれた国境線とは、1879年にイギリスの保護国となったアフガニスタンとイギリス領インドの境界をスレイマン山脈稜線とするとして1893年に策定されたもので、デュランド=ラインと言われている。アフガン王国は第一次世界大戦後の1919年に独立を回復したが、イギリスはデュランド=ラインを譲らず、それが1947年のパキスタン独立の際にも引き継がれた。その結果、スレイマン山脈の東西に広く分布しているパシュトゥーン人はアフガニスタンとパキスタンに分断されてしまった。

Episode パシュトゥーン・ワリーとジルガ

 パシュトゥーン人の各集団は農耕牧畜の土地や水をめぐって争いが絶えなかったが、「パシュトゥーン・ワリー」という独自の社会規範を持っており、来訪者へのもてなしや復讐、逃亡者の保護など、争いを調停する役割をもっていた。国際テロリストのビン=ラディンがアフガニスタンにかくまわれたのにはこのようなパシュトゥーン・ワリーがあったからである。またパシュトゥーン人社会には「ジルガ」(ジェルガとも表記)と呼ばれる長老らの会議があり、対立や紛争を調整し、組織全体の利害や方向を決めていた。現在のアフガニスタンの政治体制でも国会に当たる立法機関として「ロヤ・ジルガ」(国民大会議)が設けられた。<渡辺光一『同上書』 p.25>

参考 中村哲医師の伝えるパシュトゥーン人

 アフガニスタンの多数派民族パシュトゥンはその数推定1600万、現存する世界最大の部族社会といわれ、アーリアン系である。パキスタン側の北西辺境州全体で約90%、アフガニスタンで約50%をしめる。文化・言語ともに同一で、パキスタン側の国境地帯は「自由部族地域」と称し、連邦政府はほとんど完全な自治を与えている。
(引用)パシュトゥンの一体感ということで生き生きと思い出される滞在中の出来事は、「辺境のガンジー」と称された反英運動の闘士、アブドゥル・ガッファール・カーンの死(1787年没・99歳)である。彼の生きざまは「非常にパシュトゥン的」で、パシュトゥンにはこのような強烈かつ剛直な個性の持ち主が多い。
 彼は最後までマハトマ・ガンジーの国民会議派を支持して、パキスタン構想に反対しつづけ、「パシュトゥニスタン(パシュトゥン人の国)」の分離独立を主張した現地の英雄である。ガンジーの非暴力・不服従を奉じて「赤シャツ隊」をひきい、英国官憲の弾丸の雨をものともせず、同志の屍をこえて敢然と行進する様は的をふるいあがらせた。英国人の中には発狂する者もでたという。
 彼はペシャワール近郊のチャルサダの出身者であったが、「パキスタン国家」を認めず、一生の大半を牢獄で暮らし、「死んでもパキスタンには葬るな」との遺言をのこして死んだ。これを尊重して遺体はアフガニスタン側のジャララバードというところで埋葬された。当時、アフガニスタン政府軍とムジャヘディン(イスラムの戦士)・ゲリラは文字どおり死闘を展開していたにもかかわらず、戦闘が完全に停止して、北西辺境州の住民ばかりか、相争うアフガン人戦闘員もともにこの老闘士に最敬礼をささげた。
 1789年3月、私はペシャワール(かつてのプルシャプラ)ではめずらしい雨の降るなか、カイバル峠をこえてつづく荘重な葬列に居合わせた。その時沿道の人垣のなかで、あるパシュトゥン人の退役軍人がさけんだことばが今でも耳に残っている。
「なんで我われがおたがいを殺し合わねばならないんだ。コサックとカウボーイどもを直接シベリアで戦わせろ!」<中村哲『アフガニスタンの診療所から』2002 ちくま文庫 p.32-33>
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書籍案内

渡辺光一
『アフガニスタン-戦乱の現代史』
2003 岩波新書

中村哲
『アフガニスタンの診療所から』
2005 ちくま文庫