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アフガニスタン(1)

中央アジアの交易路を抑え、文明の十字路といわれて多くの民族が興亡した。18世紀に独立したが19世紀にイギリス・ロシアの激しい戦力争いに巻き込まれ(グレードゲーム)、一時イギリスの保護国となった。1919年に独立を回復、立憲君主政となったがソ連の影響が強まり、共産政権が成立。その維持を狙い1979年にソ連軍が介入、イスラーム勢力が反発して深刻な内戦となる。イスラーム過激派が政権を取ると、国際テロ組織の拠点と見なしたアメリカが侵攻、大きな国際問題となった。危機は現在も続いている。

 アフガニスタン(アフガン人の国、の意味)は、パキスタン・イランおよびトルクメニスタンなどの中央アジア諸国に囲まれた内陸国で海に面していない。北東部のパミール高原から伸びるヒンドゥークシュ山脈沿いに広がる山岳部と、南西部に広がる砂漠からなる。西はイラン、北はロシア(その勢力圏にある中央アジア諸民族)、東と南はインド(現在はパキスタン)に接し、東西の交通路として栄え、またパキスタンとの境にあるカイバル峠はアレクサンドロスの東方遠征以来、幾多の東西遠征軍の要衝であった。政治・経済の中心地はカーブルであるが、北部(マザリシャーフ)や南部(カンダハル)の地域的、部族的な分離傾向も強い。現在のアフガニタンとパキスタン国境はイスラーム原理主義のゲリラ勢力が潜伏する地域としてアメリカなどから問題視されている。

その後のアフガニスタン関連項目

(2)アフガン王国と英露の侵入  (3)アフガン戦争と独立回復  (4)共産政権成立からソ連の侵攻、そして内戦  (5)ターリバーン政権とアメリカ軍の侵攻  (6)アフガニスタンの現在

アフガニスタンとその周辺の諸王朝の興亡

 ヘレニズム時代にはバクトリアが成立、紀元後のクシャーナ朝ではガンダーラ美術が開花し、バーミヤンには仏教文化が栄えた。ササン朝ペルシアの支配を受けた後、イスラーム化し、10世紀にはトルコ系イスラーム政権のガズナ朝が成立し、遊牧民のアフガン人もイスラーム化(スンナ派)した。12世紀末にはガズナ朝に代わったゴール朝もインドに侵入した。
 その後アフガニスタンは、イル=ハン国、ティムール帝国の支配を受けた。アフガン人はその後もしばしばインドに勢力を伸ばしており、デリー=スルタン朝の最後のロディー朝(1451年成立)を建てた。ティムール朝がウズベク人に滅ぼされた後、アフガニスタンのカーブルを拠点としたトルコ系のバーブルは、北インドに進出してロディー朝を倒しムガル帝国を建国した。その直後、ムガル帝国から一時デリーを奪ったスール朝(1539~55)もアフガン系であったが、その支配は短期間で終わり、その後インド亜大陸は、ムガル帝国の時代となり、アフガニスタンはイランのサファヴィー朝(シーア派)とインドのムガル帝国(スンナ派)の抗争の場となった。
 18世紀にはいるとアフガニスタンを支配した周辺勢力が衰退し、アフガン人の自立の動きが出てきた。

Episode 「文明の十字路」か、「戦乱の十字路」か

 アフガニスタンは峻厳な山岳地帯と苛酷な砂漠地帯が広がり、産業には恵まれていないが、シルクロードとインド方面とを結ぶルートにあったので、昔から「文明の十字路」と言われ、ヘレニズム文明や仏教、ゾロアスター教、イスラーム教などの文明が交錯する豊かな文化遺産に恵まれた地域であった。しかし、同時にこの地はさまざまな勢力が争う「戦乱の十字路」でもあった。特に近代後はイギリスとロシアの抗争とアフガン戦争、現代のソ連軍のアフガニスタン侵攻とその後の内戦、タリバーン政権の成立とアメリカ軍の侵攻が続いた。9.11同時多発テロ以降は世界の激震地となっている。<渡辺光一『アフガニスタン-戦乱の現代史』岩波新書 2003>

(2)アフガン王国と英露の侵入

18世紀、アフガン人の最初の国家が建設されるが、19世紀にはイギリスとロシアが進出し激しく抗争した。

アフガン人の国家建設

 1722年にはアフガン人のスンナ派勢力はシーア派への転向を要求したことに反発して、イスファハーンに侵攻して破壊した。そのためサファヴィー朝は急速に衰え、1736年に滅亡する。サファヴィー朝に代わったアフシャール朝ナーディル=シャーは反撃してアフガニスタンを支配下に収め、さらに北インドに侵入してムガル帝国の都デリーを略奪した。しかし、ナーディル=シャーの圧政は住民の反発をうけ、1747年に殺害された。その混乱に乗じて、アフガン人の部族勢力が自立し、同年、アフガン人(パシュトゥーン人)の最初の独立王国であるドゥッラーニー朝アフガン王国が成立した。しかしアフガン王国も内紛が続き、1826年にはムハンマドザーイー朝(バーラクザーイー朝とも言う。1826~1973)に代わった。

英露のグレードゲーム

 19世紀にはロシアの中央アジア進出が積極的に進められ、それに対してイギリスはインド植民地に対する脅威ととらえ、アフガニスタンはその緩衝地帯となって、グレート=ゲームといわれるかけひきが展開された。イギリスは2度にわたるアフガン戦争という侵略を図り、激しい抵抗を受けた上でようやく1879年にアフガニスタンをイギリスの保護国とした。
 20世紀にはいると帝国主義的な勢力圏の分割交渉が進み、1907年には英露協商が成立し、ロシアはアフガニスタンをイギリスの勢力圏と認めた。第一次世界大戦後の第3次アフガン戦争をイギリスと戦い、1919年にアフガニスタンの独立を回復した。

(3)アフガン戦争と独立回復

アフガニスタン王国は第3次アフガン戦争でイギリスと戦い、1919年に独立を承認させた。立憲君主国となり、第二次世界大戦後は中立政策をとった。60年代、ソ連との関係が深まり、左派勢力が台頭した。

第3次アフガン戦争

 第一次世界大戦が起こると、イギリスが大戦とインドの独立運動で苦境に立っていることに乗じて、1918年にアフガン軍がインドに侵攻しイギリス軍と1ヶ月にわたる戦闘を行い(第3次アフガン戦争)、1919年にラワルピンディー条約を締結し、イギリスがアフガニスタンの外交権回復を認めて独立を回復した。しかし、アフガン側が主張した国境線をインダス川までとする要求は容れられなかった。
 こうしてアフガニスタンは広くイスラーム圏の民族的自立を達成した最初の国となったが、その内部は多民族国家であり、さらに部族対立もあり、王政ではあるが国王は有力な首長の一人に過ぎない状況が続いた。それでも1920年代に立憲君主政国家の建設が進んだ。

第二次世界大戦・冷戦とアフガニスタン

 第二次世界大戦前後の国王ザヒル=シャーは、中立外交を進め、冷戦期にも非同盟・中立を掲げ1955年のバンドン会議にも代表を送った。1960年代には憲法を改定して政党結成の自由など、立憲君主政下の一定の近代化を推進した。
 しかし、隣国パキスタンとは国境問題で対立したため、インド洋方面からの物資の流入が阻まれたこともあって、次第にソ連との関係が強まった。そのような中で1965年、アフガニスタン最初のマルクス=レーニン主義政党である人民民主党が結成され、ソ連の支援を受けて台頭し、軍にも勢力を伸ばした。

(4)共産政権成立からソ連の侵攻、そして内戦

第二次世界大戦後、73年に王政倒れ、78年に共産政権成立。イスラーム教勢力との対立強まり、翌年ソ連が介入して侵攻し共産政権を維持しようとした。それに対するイスラーム勢力の反撃から深刻な内戦に突入した。

1973年と1978年のクーデター

 1973年7月、ザヒル=シャー国王が眼の治療のためにイタリアに渡航中、ソ連で訓練を受けた若手将校らがカーブルの宮殿を占拠し、無血クーデターを成功させた。首謀者の前首相ダウドは直ちに王制を廃止して共和制の導入を表明し、自ら大統領に就いた。ダウド政権はソ連の経済援助を受けていたが、次第に独自色を強め親ソ派の軍人や人民民主党を弾圧し、一族登用など独裁色を強めたため、1978年4月、人民民主党と軍部が蜂起してクーデターを決行し、ダウド大統領は殺害され、タラキやカルマル、アミンら人民民主党政権が成立、4月30日に国名をアフガニスタン民主共和国に変更した。<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書>

アフガニスタンの共産政権

 1978年に成立した共産政権のもとで農地改革や女子教育などが進められたが、それに対してイスラーム聖職者などが伝統の破壊であると強く反発した。また共産政権も軍と結んだアミンの独裁色が強まってカルマルなどの穏健派との対立が激化し、それに部族対立がからんで政情不安が続いた。そのような中で世俗化に対するイスラーム原理主義勢力が次第に台頭し、民衆の支持を受けてゲリラ戦を展開するようになった。

ソ連の侵攻

 1979年、ソ連(ブレジネフ政権)はアフガニスタン侵攻を決定、ソ連軍を派遣してアミン政権を倒し、カルマル政権を樹立するとともに、イスラーム勢力に対する弾圧を強化した。しかしイスラーム勢力はソ連軍によって伝統と自尊心を踏みにじられたとして反感を強め、ソ連軍との戦いを聖戦(ジハード)と意義付け、ムジャヒッディーン(聖戦戦士)を組織して抵抗した。ソ連軍・政府軍と反政府軍の戦闘によって多数のアフガニスタン人が、パキスタンやイランに難民となったいった。結局9年間の戦闘でソ連軍は反政府イスラーム勢力を押さえることが出来ず、ゴルバチョフ政権のもとで1988年に和平に踏み切り、アフガニスタン撤退を決定、89年に全軍を撤退させた。


(5)ターリバーン政権とアメリカ軍の侵攻

共産勢力とイスラーム勢力の激しい内戦が続く中、原理主義集団のターリバーンが権力を握る。湾岸戦争後、世界的なイスラーム過激派のテロが活発になり、9.11同時多発テロがおきると、アメリカはその首謀者ビン=ラディンがアフガニスタンに潜伏しているとして侵攻、ターリバーン政権を倒し新政権を樹立した。

アフガニスタン内戦

 1989年、ソ連軍は撤退したが、その軍事的空白の中から、各部族がそれぞれ武装集団を造り、権力を争うというアフガニスタン内戦が始まった。その中で、パキスタンなどの近隣諸国の介入もあってイスラーム原理主義勢力のターリバーンが急速に台頭していった。

ターリバーン政権

 ターリバーン(タリバン、タリバーン)はパキスタンのアフガニスタン難民キャンプで育ったパシュトゥーン人青年を中心に、1994年7月、南部のカンダハールで武装集団として姿を現し、翌年には西部のヘラートを押さえ、96年には首都カーブルを占拠し、2000年までには国土のほぼ90%を支配しするまでに急速に台頭した。スンナ派の一分派であるハナフィー派に属し、シーア派との妥協を一切認めず、聖者崇拝を禁止し、歌や踊りなど娯楽的な要素を全面的に否定するという厳格なもので、コーランに記された原理原則(女性の教育の否定など)を国民に強制した。
 厳格な宗教理念に基づいた政治を標榜しているが、実際にはアフガニスタンに影響力を及ぼそうとするサウジアラビアやパキスタンからの資金や武器援助も行われていたといわれている。

アメリカのアフガニスタン侵攻

 2001年、9・11同時多発テロが起きると、アメリカ合衆国のブッシュ(子)政権は、その犯人として国際テロ組織アルカーイダの首謀者ビン=ラディンがターリバーン政権に保護されているとして、同年10月、アフガニスタンに侵攻を強行し、ターリバーン政権を軍事的に制圧した。新たな政権としてアメリカ軍の保護の下にカルザイ大統領が選出され、その下で新憲法も制定され、復興が進みつつあるが、ターリバーンの残存勢力がなおも活動を続けており、予断を許さない状況となっている。


(6)アフガニスタンの現在

アメリカ軍侵攻後の状況。復興はじまるが、不安定なお続く。

正式国名はアフガニスタン=イスラム共和国。首都はカーブル(日本ではカブールと言われることが多い)。
 アフガン人とは現在ではアフガニスタンの国民をさすが、その多くはパシュトゥーン人であり、それ以外のタジク人など多数の民族からなる多民族国家であり、民族対立が国家統一の最も困難な要因となっている。

アフガニスタンを構成する主な民族

 アフガニスタンの民族集団は20以上にものぼる。そのうち多数を占めるのが、1.インド-イラン系パシュトゥーン人(アフガニスタンで最も人口が多く、40%を占める。)、2.イラン系タジク人(25%)、3.モンゴル系ハザラ人(10%)、で、ほかにトルコ系ウズベク人と南方のパルーチ人、西北のトルクメン人などがいる。アフガニスタンの宗教は98%がイスラーム教で、そのうち85%はスンナ派(の中のハナフィー派)に属しているが、中央部に居住するハザラ人などはシーア派を信仰している。<渡辺光一『アフガニスタン-戦乱の現代史』岩波新書 2003 p.18>

パシュトゥーン人の分布

 アフガニスタンで最も人口の多いパシュトゥーン人は一般にアフガン人ともいう。彼らは人種・言語的にはインド=アーリア系に属し、前2000年頃西アジアから移動してきて、そこにイラン人やモンゴル人の血が流れこんだ。彼らはアフガンとパキスタンの国境線付近の山岳地帯を有効に使い、外敵の圧力に耐えてきた。かつてこの地を支配しようとしたイギリスは彼らを「パターン」と呼び、「山の民」と定義した。現在はアフガニスタンの平野部にも広がっているが、国境を越えたパキスタンにも約600万人が住んでいる。スレイマン山脈の西側、つまりアフガニスタン国内に住む集団には「ドゥッラーニー」と「ギルザイ」という二つのグループがある。山脈の東側、つまりパキスタン国内にはペシャワール周辺の平野部に定着している集団と、山岳部に住む集団に分けられる。さらに居住地域、方言、指導者の家系などによって40以上の集団に細分化される。このようにパシュトゥーン人はアフガニスタンとパキスタンの国境線をはさんで居住しており、そこにあとから国境がひかれ人為的に分断されてしまった。<渡辺光一『アフガニスタン-戦乱の現代史』岩波新書 2003 p.22>

Episode パシュトゥーン・ワリーとジルガ

 パシュトゥーン人の各集団は農耕牧畜の土地や水をめぐって争いが絶えなかったが、「パシュトゥーン・ワリー」という独自の社会規範を持っており、来訪者へのもてなしや復讐、逃亡者の保護など、争いを調停する役割をもっていた。国際テロリストのビン=ラディンがアフガニスタンにかくまわれたのにはこのようなパシュトゥーン・ワリーがあったからである。またパシュトゥーン人社会には「ジルガ」(ジェルガとも表記)と呼ばれる長老らの会議があり、対立や紛争を調整し、組織全体の利害や方向を決めていた。現在のアフガニスタンの政治体制でも国会に当たる立法機関として「ロヤ・ジルガ」(国民大会議)が設けられた。<渡辺光一『アフガニスタン-戦乱の現代史』岩波新書 2003 p.25>

アフガニスタンの復興

 アメリカ・イギリス軍のアフガニスタン攻撃と並行して、国連のアナン事務総長主導で、アフガニスタンの暫定政権樹立の準備が進んだ。それはイスラーム教以外の宗教も認める「共和制の世俗政権」とされ、同時に多数派であるパシュトゥーン勢力に配慮して彼らの伝統であるロヤ・ジルガ(国民大会議)を取り込みながら西欧的議会制民主主義を実現させることとなった。2001年11月ドイツのボンで国連主催の国際会議を開催、アフガニスタンの反タリバーン勢力の4代表を加えてて「ボン合意」を作成、暫定政権を発足させることとなり、カルザイが議長に選出された。同12月22日、カーブルで暫定政権が発足し、23年にわたる内戦に終止符を打った。2002年1月には東京で「アフガン復興支援国際会議」が開催された。さらに02年6月、緊急ロヤ・ジルガが開催され、カルザイが大統領に選出された。また治安の維持のためには国連安保理決議に基づき20ヵ国から国際治安支援部隊(ISAF)として約5000人の兵士が派遣された。しかし、内戦による国土の疲弊は深刻で、復興は十分ではなく、ターリバーンの一部が残存する地域もあり、テロも頻発している。

アフガニスタンと日本

 アメリカ・ギリス軍のアフガニスタン攻撃はテロに対する戦いという大義名分があるとして、小泉純一郎内閣はいち早く支援を表明、2001年11月2日に時限立法としてテロ対策特措法を成立させ、自衛隊派遣に踏み切り海上自衛隊がインド洋で給油活動に従事することとなった。テロ特措法による給油活動に関してはイラク戦争への転用疑惑などがもちあがり、2007年の参議院選挙で民主党が多数を占めて継続反対に回ったため、11月に時限切れで終了した。
 一方、民主党小沢党首は、イラク派兵は国連決議を受けていないと反対し、国連安保理決議によるアフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)には自衛隊の国際貢献として参加すべきであるという意見を公にした。政府はISAFへの参加は自衛隊の海外での実戦への参加に当たるとして認めていない。自民・公明両党はテロ特措法の後継法律として新テロ特措法を提案、解散がらみの政局で審議が長期化したが、2008年12月12日に参議院は否決したものの、衆議院で再可決されて成立し、インド洋での補給活動が再開されることとなった。
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ノートの参照
第13章1節 エ.イラン・アフガニスタンの動向
第15章3節 カ.トルコ革命とイスラーム諸国の動向
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渡辺光一
『アフガニスタン-戦乱の現代史』
2003 岩波新書