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パキスタン

1947年8月、インドと分離独立したイスラーム教国。イギリス連邦に加わる。インドとのカシミール紛争などをかかえ厳しく対立し、71年には東部のベンガル地方が分離した。その後、軍政が続き、イスラーム原理主義の台頭もあって政情不安が続いている。

現在のパキスタン GoogleMap

 1947年8月15日、インドと同時にイギリスから独立したイスラーム教徒が多数を占める国家。現在は人口1億5千万、言語はウルドゥー語。建国当初はインドの東西、インダス川流域のパンジャーブ・シンド地方と、地理的に離れたガンジス川下流のベンガル地方の双方から成り立ち、それぞれを西パキスタン、東パキスタンと言っていた。しかし、1971年4月に東パキスタンはバングラデシュとして分離独立を宣言、分離したため、現在のパキスタンは旧西パキスタン地域だけとなっている。

・ページ内の見だしリスト

パキスタン(1) インドとの分離独立

パキスタンの独立

 現在のパキスタンはかつてインドの一部であったパンジャーブ地方とシンド地方のインダス川流域からなり立っている。インドがイスラーム化してから、この地域は東部のベンガル地方とともにイスラーム教徒(ムスリム)が人口の多数を占めるようになり、20世紀のインド独立運動の中で、イギリスの分割統治の影響もあって、ヒンドゥー教徒主体の国民会議派と対立するようになった全インド=ムスリム連盟が、分離独立を主張するようになった。1940年、ムスリム連盟のジンナーの提唱で後に「パキスタン決議」と言われる分離独立の方針が決議され、同連盟は第二次世界大戦中にイギリスを支持してその協力を得て、国民会議派が主張したインドを一つの連邦国家として独立させることに反対し、ついに戦後の1947年8月15日にインドとパキスタンの分離独立を実現させた。パキスタンは地名ではなく、イスラーム国家であることを意味する造語であり、インダス川流域の西パキスタンとガンジス川下流域の東パキスタンという離れた二つの領域からなる変則的国家として出発することとなった。

建国時のパキスタン

 当初はイギリス国王を元首とする、イギリス連邦の一員であったので、最高位は形式的にイギリスから任命される総督であり、建国の父ジンナーが就任した。建国時は西部のパンジャブやシンド、バルチスタンを中心とした西部と、ベンガル地方を中心とした東部の、二つの地域から成立していた。首都はイスラマバード。1956年にイギリス連邦から脱して、パキスタン=イスラーム共和国となり、大統領制となった。
注意 建国時のパキスタンと現在のパキスタンの違い 建国時のパキスタンは、現在のバングラデシュをあわせ、インドの東西に国土が分かれていた。1971年、バングラデシュが分離独立して、現在のような単一の国土となった。上の地図は現在のパキスタン。また、パキスタンは北部カシミール地方で、インド・中国と国境問題を抱えていて紛糾中なので、地図では国境線が未確定とされている。また、地図で見るように、パキスタンはインダス川流域をすべて含んでおり、インダス文明以降のインド文明の中心の一部を構成していた地域でもあることを忘れないようにしよう。

パキスタン(2) インドとの戦争

1947年、インドと分離独立したパキスタンは、すぐにカシミール帰属問題からインド=パキスタン戦争に突入、1971年まで3次に渡って続いた。

インド=パキスタン戦争

カシミール帰属問題 建国以来、政治は安定せず、ヒンドゥー教徒の国インドとは、建国時から対立が始まり、藩王国カシミール帰属問題をめぐって起こった。インド亜大陸北西部の山岳地帯であるカシミール地方は、イスラーム教徒が多かったが、藩王はヒンドゥー教徒であったので、インドとパキスタンの分離独立に際して、どちらに帰属するか問題となった。
第1次インド=パキスタン戦争 住民の大部分であるイスラーム教徒がパキスタンへの帰属を求め、1947年10月、藩王はインド政府に軍隊派遣を要請、パキスタンも軍を派遣したので生まれたばかりの両国は第1次インド=パキスタン戦争(カシミール戦争ともいう)を戦うこととなった。戦争は優勢なインド軍がカシミールのほぼ3分の1を制圧したところで、国際連合の調停によって1949年1月に休戦した。国連は停戦の条件にカシミール地方の住民投票で帰属を決定することを出していたが、インドはそれに応じることはなかった。
軍の台頭 戦争の敗色の濃い中、建国の父と称されたジンナーが急死し、その後継者の首相も暗殺されるという不穏な状況が続くと、次第に軍部の発言力が強まっていった。インドがネルー首相が非同盟主義にもとづき、中立政策をとり、中華人民共和国を承認するなど、反米的な第三勢力結集に向かうと、パキスタンは軍の主導のもとで、アメリカ寄りの姿勢を強め、対ソ包囲軍事同盟網である1954年の東南アジア条約機構(SEATO)、55年の中東条約機構(MATO)のいずれもにも加わった。(当時は東パキスタンを領有していたので、東南アジアの範疇にも入っていた。)
アユブ=カーンの軍政 1958年、国防大臣アユブ=ハーンが軍事クーデターで権力を掌握、軍政を開始した。以後、パキスタンは軍政下に置かれることが多く、現在まで続いている。翌59年にはチベット問題の反中国暴動が起き、ダライ=ラマがインドに亡命したことから一気に中国・インド関係は悪化し、62年には中印国境紛争となった。インドが敗北してネルー政権が追いこまれると、パキスタンは中国に接近し、国境協定で同意し、インドに備えた。
第2次インド=パキスタン戦争 1965年9月、第2次インド=パキスタン戦争が勃発、パキスタン軍はジャンム=カシミール付近に侵攻、インド軍はパキスタン本土のラホールを攻撃した。しかし、当時ベトナム戦争の本格化に備えていたアメリカはインド=パキスタン間の戦争が激化することを恐れ、9月に国際連合の調停を受けて停戦が成立した。
東パキスタンの分離独立 アユブ=ハーン軍政の戦争政策に対する不満は、特に東パキスタンで強まり、アブジル=ラフマンの率いるアワミ連盟が反政府運動を展開、69年にアユブ=ハーンは弾圧に失敗して失脚したが、軍政は続いた。翌70年、パキスタンで建国以来初めて成人普通選挙が行われ、東パキスタンではアワミ連盟が、西パキスタンではズルフィカール=ブットーの率いるパキスタン人民党が第一党になった。

バングラデシュの独立

 パキスタンはインダス川流域とベンガル地方という東西領域によって構成され、イスラーム教という共通項はあったが民族構成、言語では異なっていた。また、政治・経済の面では西パキスタンが優位を占めていたため、東パキスタンに次第に独立論が台頭してきていた。軍事政権は選挙結果を認めず、政党を弾圧しようとしたため、東パキスタンでの反軍政運動は一挙に昂揚し、1971年4月17日、アワミ連盟はパキスタンをバングラデシュとして独立宣言を発した。
第3次インド=パキスタン戦争 インドインディラ=ガンディー政権は東パキスタンの内戦による難民が多数、インド内になだれ込んできたことから、介入に踏みきり、東パキスタンの独立を強く支援した。1971年12月、第3次インド=パキスタン戦争が起こると、東パキスタンの政府軍は孤立して無条件降伏し、バングラデシュの独立は承認された。
シムラ協定 第3次インド=パキスタン戦争でのパキスタンの敗北は、軍事政権批判を強めることとなり、パキスタン人民党のズルフィカール=ブットーが大統領に就任し、民政に戻った。72年7月には、インド・パキスタン首脳がシムラで会談し、71年12月の停戦ラインを両国の実効支配を分ける境界とすることで合意し、国境問題を棚上げした。カシミール帰属問題は解決されず、それぞれの主張は平行線のまま、インド・パキスタン・中国三国がそれぞれ占領地を実効支配している状態が続いている。

軍事政権クーデターとイスラーム化

 ナショナリズムを高揚させ、インドのヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー=ナショナリズム)に対抗するイスラーム化の動きが強まった。そのような中で、1977年、ズルフィカール=ブットー大統領が軍事クーデターで倒され、ジアウル=ハック陸軍参謀長が権力を掌握した。ハックは戒厳令を発して軍事政権を続行、「イスラーム化」を推し進めた。特にイスラーム刑法の施行され、飲酒、姦通、窃盗などに対する刑罰として石打ち、はりつけ、手足の切断、鞭打ちなどが定められた。これらは一部執行されたが、民衆の反発もあり、運用上は休眠状態となっている。
 ハックは88年に飛行機事故で死去し、総選挙の結果、前大統領の娘のベナジル=ブットーが首相となって民政に復帰した。ブットー政権は世界的な民政化の動きやアメリカの支持で成立したが、90年の総選挙ではパキスタン=ムスリム連盟のシャリフ政権が成立、さらに93年総選挙ではベナジル=ブットーが返り咲きなど、民政期の混乱が続いた。

パキスタン(3) 核実験とその後

3次に渡って続いたインド=パキスタン戦争を経て、90年代にインドに対抗して核実験を行い、両者の対立は核戦争になりかねない緊張をはらむこととなった。国内ではイスラーム原理主義の台頭も有、不安定な状態が続いた。

パキスタンの核実験

 インドとパキスタンの対立は、米ソ冷戦時代にはインドがソ連寄り、パキスタンがアメリカ及び中国寄りという図式があったが、1991年のソ連崩壊はそのような図式が崩れ、両者は直接的な力による対決という姿勢を強めることとなった。一方のインドにおいて、1990年代に民族主義的なインド人民党政権が成立したことを受け、インド=パキスタンの対立はさらに深刻さを増した。1998年5月11日にはヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党政権がインドが核実験を行ったことに対抗して、シャリフ政権は同じく1998年5月28日に核実験を強行した。この間隔を置かない両国の核実験強行は、世界の強い非難を呼び起こしたが、両国とも自国の防衛権にもとづく正当な行為だとして譲らなかった。
 このような軍事的緊張が高まるなかで、99年10月、再び軍事クーデターが起き、陸軍参謀長ムシャラフが権力をにぎり、パキスタンは軍政に戻った。ムシャラフ軍事政権はたびたびインドに対して「越境侵攻テロ」を試み、両国の対立は核戦争への危機をもたらした。

インド=パキスタンの対立と和平

 しかし、2001年に9.11同時多発テロが勃発、アフガニスタン攻撃によってイスラーム原理主義との全面的対決に乗り出したアメリカは、インドとパキスタンの対立の解消に迫られ、調停に乗り出した。また両国も核開発競争が経済発展を圧迫していたため、その調停をけいれ、和平交渉を開始した。

イスラーム原理主義との闘い

 ムシャラフ政権は親米の立場から国内のイスラーム原理主義弾圧を強めたが、北部のアフガニスタン国境はターリバーンの活動拠点となり、不安定な状況が続いた。また、アメリカは国内の民主化を求める勢力に人気のある前首相ブットー女史を帰国させ、ムシャラフ政権との協力を図ったが、2007年12月27日、選挙遊説中にイスラーム原理主義者と思われるテロによって殺害され、パキスタン情勢は混沌とした。2011年には、アフガニスタンから逃れパキスタン北部の山岳地帯に潜伏したと思われるアルカーイダの指導者ビン=ラディンがアメリカ軍のピンポイント爆撃によって殺害された。
 カシミールでのインド軍とのにらみ合いも続いているが、今のところ全面戦争へのエスカレートは両国軍の自重により避けられている。ただ、2008年にはパキスタンからの「越境テロ」と思われるムンバイの同時多発テロが起こり、160人もの犠牲が出たことからインド政府は硬化している。

マララ=ユスフザイ

 2012年10月9日、パキスタンの北部のスワート県で、14歳の少女、マララ=ユスフザイがスクールバスに乗ろうとしたところを銃撃され、瀕死の重傷を負った。懸命の救命処置によって一命を取り留めたが、まもなくスワート県を実効支配していたターリバーンが、このわずか14歳の少女を銃撃したと犯行を声明した。その理由は、マララが英文のブログなどで、ターリバーン政権の女子教育否定を批判し、イギリスのマスコミなどに取り上げられたことを、欧米に対する追従であるとして断罪したというものであった。
ノーベル賞受賞 ターリバーンにたいする国際的非難が強まり、国連の潘基文事務総長、アメリカのクリントン国務長官などが声明を発表した。東部から銃弾を摘出する手術に成功して回復したマララは、2013年7月、国連本会議で演説し、女性が教育を受ける権利を守る闘いを続けると決意を語った。そして2014年度のノーベル平和賞受賞者に、史上最年少で選出された。パキスタン国内でも受賞は歓迎されたが、一部には依然としてターリバーンの影響力が強く、西欧文化の侵略と捉えてマララの受賞を無視する勢力も存在しているようだ。
 → YouTube マララ=ユスフザイの国連演説

NewS インド、カシミールの自治権剥奪

 2019年8月5日、インドのモディ首相(インド人民党政権)は、ジャム=カシミール州の自治権を剥奪して政府直属州とする方針を明らかにした。同地の領有権を主張しているパキスタンのカーン首相は、ただちに抗議声明を発表し、国際社会に指示を求めているが、インド側は内政問題として抗議を受け受けない姿勢をとっている。ジャム=カシミール州がインド直轄地とされることで、多数派であるイスラーム教徒の自治権のみならず、自由や経済活動が大きく制約されることになるとして住民も強く反発している。なによりも核保有国である両国関係が最悪の事態にいたるのではないかという国際社会で危惧する声も広まっている。 → カシミール帰属問題の項を参照
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