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プルシャプラ(ペシャーワル)

クシャーナ朝の都で、ガンダーラ地方の中心都市。現在のペシャーワル。パキスタンに属している。

プルシャプラ(現ペシャーワル)GoogleMap

 インド古代のクシャーナ朝の都。現在のペシャーワル(ペシャワール)で、現在はパキスタンに属する。インダス川上流のガンダーラ地方の中心都市。プルシャプラとは、サンスクリット語で「国境の町」を意味するプラシャ・プラから来たと言われ、それがなまって現在のペシャーワルになった。その名の通り、アフガニスタンからカイバル峠を超えてインド(現在はパキスタン領)に入ったところにあり、交通の要衝であった。クシャーナ朝時代の仏教文化ガンダーラ美術が花咲いたガンダーラ地方の中心都市でもある。

国境の町 ペシャーワル

 ペシャーワル(日本ではペシャワールと言うことが多い)は、パキスタンとアフガニスタンの国境とされるスレイマン山脈の稜線をまたぐカイバル峠のパキスタン側にある。カイバル峠はアレクサンドロス大王も通った、古来東西文明が往来した峠であり、麓のペシャワールは、クシャーナ朝時代の都プルシャプラに当たり、アフガン王国の冬の王宮であった。今でこそパキスタンに属しているが、人種的にも現在のアフガニスタンの多数民族であるパシュトゥーン人も多い。  19世紀にはインドを支配したイギリスがペシャワールに進出、一方で南下政策を進めるロシアを警戒し、先手をうってアフガニスタンを勢力下に収めようとした。しかし、イギリスはアフガン戦争で2次にわたり、激しい抵抗に遭い、苦戦の上、1879年にはアフガニスタンを保護国化、さらに1893年にはスレイマン山脈の稜線を暫定的軍事境界線とした。このデュランド・ラインと言われた境界線は1919年の第3次アフガン戦争をへて国境線として確定し、現在のアフガニスタン=パキスタンの国境線となっている。この「国境線」はパシュトゥーン人を分断し、現在に至るまでこの地域の苦難の歴史の痕跡となっている。そしてペシャワールは雑然とした街並みの都市から、イギリスのアフガン出撃の基地という愚寺都市としての街並みをみせるようになった。
 現代では、1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻によって、多数のアフガン難民がカイバル峠を越えてペシャワールとその周辺に押し寄せた。1988年のソ連軍撤退後はイスラーム過激派と言われるターリバーンが急速に台頭、アフガニスタン内戦となった。
 このペシャーワルに、1984年、「らい根絶支援」協力のために赴任し、アフガニスタン難民問題に巻き込まれ、後にアフガニスタンに赴いて医療と潅漑用水の建設で活躍したのが中村哲医師だった。中村医師は2019年12月4日にジャララバードで現地の暴漢に射殺された。彼が所属した団体はペシャワール会といい、現在も活動を継続している。ペシャーワルにおける中村医師の活動は、彼の『アフガニスタンの診療所から』1993年初刊 2005年再刊 ちくま文庫 に詳しい。
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書籍案内

中村哲
『アフガニスタンの診療所から』
2005 tくま文庫