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フィリピン共和国

フィリピン革命によってアギナルドらが1898年に独立を宣言した。アメリカとの戦争によって1902年に崩壊した。これを第一次共和国という。その後アメリカの支配が続く中で独立運動も続き、次第に自治が拡大される。太平洋戦争での日本の軍政で独立は後退、ようやく日本軍敗北の後、1946年7月4日に完全な独立を達成した。

第1次フィリピン共和国

 フィリピン革命の中で生まれたフィリピン最初の独立共和国であり、第1次フィリピン共和国ともいう。
 米西戦争でスペイン軍とアメリカ軍の戦闘が始まるとアギナルドらはフィリピン兵を組織してアメリカ軍と共に戦い、1898年6月12日に独立を宣言した。アギナルドを大統領として発足したフィリピン共和国は、マニラがアメリカ軍によってスペインから奪還されたものの、アメリカ軍が占領をつづけているため、本拠をマロロスに移し、第1回の議会を開催した。そこでこの国家をマロロス共和国ともいう。

フィリピン=アメリカ戦争

 しかし、米西戦争でスペインを破ったアメリカはフィリピン共和国を承認せず、講和条約である1898年のパリ条約でフィリピン領有権を2000万ドルでスペインから買い取って軍政下に置いた。独立を認められなかったアギナルドは、アメリカとの戦争に立ち上がり1899年2月からフィリピン=アメリカ戦争となった。
 こうしてスペインからの独立を目指してアメリカと共に戦ったにもかかわらず、今度はアメリカとの戦争にたち向かわなければならなくなった。フィリピン共和国側はゲリラ戦で抵抗したがアメリカの近代的装備の軍隊に敗れ、アギナルドも逮捕されたため、1902年に敗北した。そのため第1次フィリピン共和国は約4年間の短命に終わった。 → フィリピン(アメリカの統治)

アメリカによる統治

 フィリピンの独立を抑圧して植民地支配を開始したアメリカは、アジア、特に中国進出の拠点としてフィリピンを重視したが、フィリピンではケソンなどを指導者とした独立運動が続き、アメリカはその統治に苦しんだ。1907年には一定の自治を認め、議会を開催した。アメリカ議会側には、フィリピン植民地を放棄する主張も唱えられるようになり、1913年にはウィルソン大統領がフィリピンに自治独立への道を開くという宣言を行い、それをもとに第一次世界大戦の最中の1916年にフィリピンに大幅な自治を認めるジョーンズ法が議会で制定された。ここでは議会の開設を中心とした自治が認められた。
10年後の独立の約束 さらにフランクリン=ローズヴェルト大統領の時、1934年にはフィリピン独立法(タイディングス=マクダフィ法)で10年後の完全独立と、それに備えた憲法制定その他が定められた。同法に基づき、1935年には憲法が制定され、フィリピン独立準備政府(コモンウェルス)が発足、ケソンが初代大統領に選ばれた。

日本の軍政と独立の達成

 しかし、第二次世界大戦は太平洋戦争に拡大され、日本軍がフィリピンを占領して軍政が布かれてフィリピンの独立は再び後退した。日本軍のもと、1943年には対日協力政府が作られたが、まもなくアメリア軍の反攻が開始され、1945年8月に日本軍は敗北、それを受けてアメリカ議会はフィリピン独立法に基づき、フィリピンの完全独立を承認、1946年7月4日に正式にフィリピン共和国が独立した。 → フィリピンの独立
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書籍案内

早瀬晋三
『未完のフィリピン革命と植民地化』
世界史リブレット
2009 山川出版社