印刷 | 通常画面に戻る |

マニラ

1571年、スペインがフィリピン支配のために設けた都市。メキシコのアカプルコとの間の太平洋を横断するガレオン貿易の拠点として栄えた。

 スペインのカルロス1世の派遣したマゼラン艦隊が1521年にこのフィリピンに到達した後、1565年にレガスピがフィリピン統治のために派遣されたところから、スペインのフィリピン支配が実質的に始まった。レガスピは、1571年6月24日にルソン島のマニラを建設して市政を敷き、市役所、市議会を設置、市長を任命し、その支配を本格的にした。以後はマニラと太平洋をはさんでメキシコのアカプルコとのあいだの定期航路が開かれ、ガレオン貿易が18世紀末まで継続して繁栄した。スペインはマニラで中国商人から絹織物や陶磁器をメキシコ銀で支払い、マニラ経済は大いににぎわったが、フィリピンの産物はほとんど取り扱われなかった。

マニラ市

 中心部はサンチャゴ要塞を中心にした旧市内(イントラムーロス)にスペイン人およびメスティーソ(スペイン人と現地人の混血)だけが住み、市外に中国人町や、一時は3000人を超す日本町があった。1611年には東アジア最古の大学、サント=トマス大学が創建された。マニラ経済の実権は次第に生糸を扱う華僑(中国人)と中国系メスティーソの手に握られるようになった。 → マニラ開港

マニラの中心地 イントラムーロス

 マニラ市の中央を貫流するパシグ川の河口に、幅760m、長さ約1500mの六角形の城跡がイントラムーロスと呼ばれる「旧マニラ市」である。1571年にスペインのレガスピによって建設され、スペインとその後のアメリカ、日本による支配の拠点となったところである。現在では城壁は崩れ落ち、荒廃しているが、フィリピン全市の悲劇の舞台であった。

レガスピのマニラ征服

 フィリピン総督レガスピはセブ島に根拠地を起き、遠征隊を派遣し、島々を征服していった。フィリピン人の部族対立を利用しながら征服を続けた遠征隊は最大のルソン島に達し、1570年5月にその中心にあるマニラを新たな拠点とすることを企図し、マニラの首長ラジャ=ソリマンと交渉した。ソリマンは対等な友好は望むが「我らは、決して侮辱には耐えられぬ。自分らの名誉を傷つけられるようなことならば些細なことも、死をもって報復する」と従属は拒否した。双方が砲撃を開始、スペイン軍は火縄銃で武装して市街に侵入し、火を放った。フィリピン人は雨が降って火縄銃が使えなくなることを願ったが、皮肉にも雨が降り出したのはマニラが全焼したあとだった。このとき、マニラでスペイン兵と戦ったものの中には中国人や日本人もいた。ラジャ=ソリマンの砦も焼け落ち、そのあとはスペイン人のサンチャゴ砦となった。こうしてマニラはスペイン人の手に落ちたが、ソリマンはマゼランを殺したラプラプとともに、フィリピンの英雄となっている。
 レガスピは、翌1571年6月にマニラに入城し、マニラ市建設の宣言文を読み上げ、マニラ市と命名し、市長、市会議員、判事などを任命した。国王フェリペ2世は74年にマニラ市に特許状を与え、マニラ市には「令名あり常に忠誠なる都市」、ルソン島には「カスティリヤ新王国」の称号を与えた。<松田毅一『黄金のゴア盛衰記』1977 中央公論社 p.173-180>

マニラ開港

スペインが独占していたマニラ港貿易を、1834年に他国にも解放したこと。

 マニラは16世紀以来、ガレオン貿易の拠点として繁栄し、スペインは他のヨーロッパ諸国の船が入港することを排除していたが、17世紀にはいると本国スペインの衰退、オランダ、イギリスの台頭という変化を受け、マニラへの入港を求める外国船も多くなった。1762年から64年まではイギリスの東インド会社が武力でマニラを占拠する事件も起こった。18世紀にはいるとアメリカ船も加わり、フィリピン産品を求めて来航するようになった。それらを受けて1834年にスペインは正式にマニラを開港せざるを得なくなった。この結果、フィリピンは砂糖などのプランテーション主体の産業となり、またマニラ経済は華僑(中国人及び中国系メスティーソ)に握られることとなった。

マニラ フィリピン革命とアメリカの統治

フィリピン革命後では共和国首都はマロロスに移る。共和国を弾圧したアメリカがマニラを中心に植民地統治を行う。

フィリピン革命とアメリカの統治

 19世紀後半、フィリピンではホセ=リサールを指導者とした独立運動が始まる。1896年にフィリピン革命のなかで、アギナルドは1898年、マニラから離れてモロロスでフィリピン共和国の独立を宣言した。しかし、アメリカがアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)によってスペインからフィリピンの統治権を奪い、フィリピン共和国との間でフィリピン=アメリカ戦争となり、共和国を弾圧したアメリカが統治することとなる。マニラはアメリカによる植民地統治の中心地となる。

マニラ 日本軍の入城

第二次世界大戦では1942年1月、日本軍が侵攻して占領される。1945年の日本軍撤退の際、市民に多くの犠牲が出る。

日本軍の占領

 1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃から太平洋戦争がはじまると、開戦直後から日本軍はフィリピン侵攻を開始し、アメリカ軍のマッカーサー司令部の置かれたイントラムーロスのサンチャゴ要塞に対する空爆を行った。12月26日、アメリカはマニラを無防備都市の宣言をしたが、日本軍は攻撃をやめず、1942年1月2日にマニラに侵入し、激しい攻防戦の結果、陥落した。マニラ陥落の知らせを受けた日本では、1月9日、大坂で「マニラ陥落、豊太閤奉告祭、祝賀大行進」を行っている。豊臣秀吉が当時呂宋(ルソン)国と言われたフィリピンを征服戦と試みたが、その果たせなかった夢が実現したとされたのである。一方マッカーサーは、I shall return. の言葉を残してオーストラリアに撤退したが、その言葉通り、1945年1月、アメリカ軍はマニラに総攻撃を加え、山下奉文を司令官とする日本陸軍はマニラを撤退した。

日本軍撤退とマニラ市街戦

 陸軍は「マニラ市を戦火に曝すのは、伝統ある文化施設を灰燼に帰し、無辜の住民を塗炭の苦しみに陥れるもの」と宣言して撤退したが、イントラムーロスとその付近には海軍陸戦隊と、戦闘要員として現地召集された在留邦人の残留部隊約1万が残されていた。フィリピン軍司令官に見捨てられた彼らは満足な武器もなく、竹槍なども武器にした。アメリカ軍の侵攻にあわせてフィリピン人ゲリラも各所で蜂起し、2月9日前後に壮絶な市街戦となった。2月24日に最後のサンチャゴ要塞が陥落、日本の抵抗は終わったが、その間、多数のマニラ市民が犠牲となった。特にサンチャゴ要塞では地下牢にアメリカ人、フィリピン人、スペイン人、中国人などの捕虜が収容されていたが、日本軍憲兵隊は要塞から撤退する際に囚人を焼き殺し、さらに海水面より低い地下牢が高潮で水没して捕虜が溺死するのを放置したことは、戦後の長い間、マニラでの日本に対する悪感情の原因となっていた。