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不戦条約/パリ不戦条約/ブリアン=ケロッグ協定

1928年、仏のブリアンと米のケロッグが提唱して実現した戦争を否定する初の国際条約。

 1928年8月、フランスの外相ブリアンがアメリカに対し戦争放棄を目的とした仏米協定締結を提案、それを受けたアメリカ国務大臣ケロッグが、多角的な国際条約にする必要があると各国に働きかけ、ドイツ、日本も含む15ヶ国が参加してパリで調印し成立した。後に63ヶ国が参加し全世界的な国際条約となった。パリ不戦条約ブリアン=ケロッグ協定ともいう。   → アメリカの外交政策

意義

 特に国際連盟には不参加だったアメリカとソ連も参加したので、平和維持に大きな期待が寄せられた。その内容は3ヵ条からなり、「国際紛争解決のため、および国策遂行の手段としての戦争を放棄すること」を誓った。これは、第一次世界大戦までの近代主権国家が、「戦争に訴えるのは国家の自由である」という立場をとっていたのに対し、第一次世界大戦の悲惨な体験を経て、世界が戦争そのもを否定して「戦争の違法化」を合意した点できわめて重要であり、国際連盟規約の精神を具体化するものであった。第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできなかったが、大戦中に連合国で結成された国際連合憲章の前文の「共同の利益の場合を除く外は武力を用いない」という文言や、第2条第4項で「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を・・・慎まなければならない」と言う規定につながった。

問題点

 しかし、アメリカは条約締結に当たり、重大な条件を付帯させた。それは、この条約は「いかなる点においても自衛権の制限もしくは毀損を意味してはいない。この権利は、各主権国家に固有のものであり、あらゆる条約に事実上含まれている。」と表明し、自衛のための戦争は可能であるという道を残したことである。また不戦条約には「侵略」をどこが認定するのか規定が無く、「違反に対する制裁」についても触れられていなかったため、理念的規範にすぎないと考えられ、結局、第二次世界大戦の勃発を防げなかった。

不戦条約と日本

 日本は条約第1条に「人民の名において」とあることを「国体に反する」として保守派の枢密院が反対したので、田中義一内閣はこの一句は日本には適用されないと言う留保条件を付けて、翌年ようやく批准した。しかし、この条約に拘束され、中国侵略を自衛のための行動であるとして、「満州事変」や「日華事変」というように戦争行為を「事変」と強弁せざるを得なかった。
 戦後、日本国憲法を制定するに当たって、第9条で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とされたのは、この不戦条約を生かした条項であった。

資料 パリ不戦条約

第1条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する。
第2条 締約国は、相互間に発生する紛争又は衝突の処理又は解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する。
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ノートの参照
第15章2節 イ.国際協調と軍縮の進展