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国際連盟

第一次世界大戦後に設立された、世界最初の国際平和維持機構。

 国際連盟 League of Nations は、アメリカ大統領ウィルソン十四カ条の原則で提案、ヴェルサイユ条約の第1編でその規約が定められ、1920年1月10日に成立した。
 本部はスイスのジュネーヴにおかれ、総会・理事会・事務局と、国際労働機関(ILO)・常設国際司法裁判所の2つの外部機構があった。常任理事国は最初、イギリス・フランス・イタリア・日本の4ヶ国。アメリカ、ドイツ、ソ連が参加していないため、イギリスとフランスがリードすることが多かった。原加盟国は戦勝国を中心に42カ国。加盟国は最盛時に59カ国だった。
 国際連盟は世界最初の集団安全保障による平和維持を目的とした国際協力機関として重要な存在であったが、当初より次のような問題点があったため、その機能を十分に発揮することができなかった。1945年6月に国際連合が成立(10月発足)したのに伴い、1946年4月に解散した(国際連盟が国際連合に移行したのではないことに注意する)。

資料 国際連盟規約

 1919年6月28日、ヴェルサイユ条約の第1編として国際連盟規約が講和会議総会で調印された。以下はその要点の抜粋。
  • 前文 締約国は戦争に訴えないという義務を受諾し、各国間の開かれた公明正大な関係を定め、各国政府間の行為を律する現実の規準として国際法の原則を確立し、組織された人々の間の相互の交渉において正義を保つとともにいっさいの条約上の義務を尊重することにより、国際協力を促進し各国間の平和と安全を達成することを目的として、この国際連盟規約に合意する。
  • 第8条 連盟加盟国は、平和を維持するためには、国の安全と、国際的な義務遂行のための共同行動実施とに支障がない最低限度まで、その軍備を縮小する必要があることを承認する。
  • 第11条 戦争または戦争の脅威は、連盟加盟国のいずれかに直接の影響がおよぶか否かを問わず、すべての連盟全体の利害関係事項であることをここに声明する。連盟は、国際的平和を擁護するために適当かつ有効と認められる措置をとる。そのような事態の発生に際し、事務総長は、いずれかの連盟加盟国の請求に基づき、直ちに連盟理事会の会議を招集する。
  • 第16条 ・・・戦争に訴えた連盟加盟国は、当然他のすべての連盟加盟国に対して戦争行為を行ったものとみなされる。他のすべての連盟加盟国は、その国とのいっさいの通商上または金融上の関係の断絶、自国民とその違約国国民との間のいっさいの交通の禁止、・・・をただちに行う。
  • 第22条 先の戦争の結果これまでの支配国の統治を離れた植民地や領土で、近代世界の苛烈な条件のもとでまだ自立しえない人々が居住しているところに対しては、そのような人々の福祉と発達をはかることが文明の神聖なる使命であり、その使命遂行の保証を本規約中に包含するとの原則が適用されなければならない。この原則を実現する最善の方法は、そのような人々に対する後見の任務を、資源や経験あるいは地理的位置によってその責任を引き受けるのにもっとも適し、かつそれを進んで受諾する先進国に委任し、連盟に代わる受任国としてその国に後見の任務を遂行させることである。
(説明)第8条で、国際連盟加盟国は軍縮に努めなければならないことが規定されている。この規定に基づいて国際連盟は1932年からジュネーヴ一般軍縮会議を開催するが、ヒトラードイツは、ドイツだけが軍備を制限されているのはこの規定に反するとして、国際連盟脱退の口実とする。
 第11条は新しい国際平和実現のための集団安全保障の規定であり、国際連盟規約の最も重要な部分であった。第16条は戦争を起こした国、つまり違約国に対する経済制裁の規定である。軍事的制裁は規定されていなかった。
 第22条は委任統治に関する規定。民族自決という理念は東欧諸民族に適用されただけで、アジアやアフリカ、太平洋地域の人々は「自立できない人々」として「先進国」によって後見されるべきであるという。この制度のもとで植民地は実質的に拡大されていった。<歴史学研究会『世界史史料』10 岩波書店 p.148>

国際連盟の問題点

  1. 有力国の不参加。アメリカ合衆国ロシア(22年よりソ連)ドイツの不参加。:
    アメリカ合衆国の不参加は、議会が孤立主義モンロー主義)の原則に立ち、批准を拒否したためであった(アメリカの外交政策)。
    ドイツ共和国は1925年にロカルノ条約に調印し、ライン非武装と相互不可侵を約束したので1926年に加盟が認められた。
    ソ連邦は、アメリカ合衆国のフランクリン=ローズヴェルト政権による1933年の承認をうけて、1934年に加盟。
  2. 侵略に対する制裁のための軍事力を持たなかったため、紛争の解決が困難であった。
  3. 総会は全会一致で決議する原則であったので、迅速かつ有効な決議を行うことが困難だった。(国際連合の総会は多数決採決となった)

国際連盟の働き

 設立当初から国際連盟は、集団安全保障の理念に基づき、国境紛争の解決などにあたり、戦後の国際協調の流れの中で役割を果たした。国際連盟が取り組んだ問題には、ダンツィヒ問題フィウメ問題イズミル問題などであり、特にフランスなどのルール占領問題は最大の問題であった。それらは主としてヨーロッパの問題であったが、1925年のロカルノ条約の締結によって危機を避け、さらに国際協調の最大の実績としてアメリカ合衆国も加えた1928年の「不戦条約」および「国際紛争平和的処理に関する一般議定書」の採択などの平和政策を推進できたことは成果とすることがことが出来る。また軍縮は国際連盟の掲げた第一の課題だったので、アメリカ合衆国が主導したワシントン会議などの海軍軍縮会議とは別に、国際連盟の場で1932年からジュネーヴ軍縮会議も開催された。しかし、世界恐慌後の各国はそれぞれ軍備増強に走り出していたため、成果を収めることはできなかった。

世界恐慌と国際連盟

 国際連盟中心の国際協調の機運に冷水を浴びせたのが1929年の世界恐慌であった。アメリカ・イギリス・フランスなどはブロック経済の構築、ドイツ・イタリア・日本は生存権の拡大へと走る中、国際連合も無策であったわけではなく、ドイツ賠償問題の最終的決着を図ろうとジュネーヴで会議を開催したがアメリカの協力が得られず失敗、さらに1933年には国際連盟の主催でロンドン世界経済会議を開催し、アメリカも参加して世界恐慌から国際的な脱却の方向を探ろうとしたが、これもアメリカとイギリス・フランスの利害の対立からまとまらず、ついに武力による解決へと傾斜してしまった。

有力諸国の加盟と脱退

 ロカルノ条約の成立により1926年にドイツの加盟が認められ、直ちに常任理事国となった。1920年代後半は国際協調気運が盛り上がったが、1929年の世界恐慌で暗転し、日本は1931年に満州事変を起こし、中国大陸侵略を開始した。国際連盟がリットン調査団の報告を受けて、それを侵略行為と認定したため、1933年に日本は国際連盟を脱退した。同年、軍備平等論を主張するヒトラー政権は軍備制限が不平等であると反発してドイツの国際連盟脱退を実行した。翌1934年には、当初は加盟を拒否されていたがファシズム諸国の台頭が脅威となったため、入れ替わるようにしてソ連の加盟が認められた。イタリアはエチオピア併合を非難されたため1937年に脱退した。ところが、ソ連は1939年12月、フィンランドとの戦争を侵略行為とされて除名された。このように、国際連盟はアメリカ合衆国の不参加に加え、有力な各国が脱退したり、除名されたため、その本来の使命である集団安全保障の理念を全面的に否定されることとなり、その無力化を招き、第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。

常任理事国

 国際連盟で総会に次ぐ機関である理事会には、1920年発足時にはイギリス・フランス・イタリア・日本の4カ国が常任理事国となり、それと非常任理事国から構成された。後に加盟したドイツとソ連は、加盟期間中、常任理事国に加わった。なお、非常任理事国は後に9カ国となった。

日本と国際連盟

 日本はパリ講和会議において、ヴェルサイユ条約を認め、国際連盟に加盟する条件として「二十一カ条の要求」以来の山東省権益の継承を条件とした。ウィルソンは日本の主張を認めることは、自ら「十四カ条の原則」の民族自決原則に反し、中国の反対を受けることを判っていたが、日本を国際連盟に加盟させることの方を重視して、その要求をのんだ。こうして日本は国際連盟に加盟し、しかも常任理事国という責任ある立場に立つことになった。「・・・(国際)連盟の理事国となったわが国は、そのことに喜ぶあまり、客船を一隻チャーターしてジュネーヴに大代表団を送りこんだのだった。」<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書 p.209>という。
 1920年から26年、国際連盟事務局次長を務めたのが、『武士道』で有名な、新渡戸稲造だった。国際連盟は戦前期日本の重要な外交活動の舞台であったが、1931年の満州事変を期に孤立を深め、33年に脱退することとなる。
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ノートの参照
第15章2節 ア.ヴェルサイユ体制とワシントン体制