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大東亜共栄圏

1940年7月、日本の近衛内閣が掲げた戦争目的が大東亜共栄圏の建設であった。西欧諸国の植民地支配を打破してアジア諸民族の独立をはたし、共存共栄を図ることが目的とされたが、実態は日本の軍国主義を維持するための新たな植民地支配が行われた。

 1940年7月に成立した第2次近衛文麿内閣は、「基本国策要項」を決定、その中で「八紘一宇」を目標とする「肇国の大精神」にもとづき、「日満支(日本、満州国、中国)の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序」を建設することを掲げた。「大東亜の新秩序」とは、1938年の第1次近衛内閣が掲げた「東亜新秩序」を拡大し、東アジアに東南アジアを含めた地域で、日本の覇権の確立を目指したものであった。その「大東亜の新秩序」と同じ意味で「大東亜共栄圏」というキャッチフレーズを使ったのは松岡洋右外務大臣であった。
 その後この「大東亜共栄圏」は日本の戦争目的を表す言葉として多用されるようになり、日本軍の南方進出、さらに米英との対決から1941年12月8日の太平洋戦争への突入へと日本を導いていった。そして大東亜共栄圏に含まれる地域では、白人支配を排除する名目で、「皇民化政策」という日本人化の強制が行われた。<小林英夫『日本のアジア侵略』世界史リブレット p.53,73 山川出版社> → 軍政
 この大東亜共栄圏の具体化として、東条英機内閣は、1943年11月に東京で大東亜会議を開催した。
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