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太平洋戦争

1941年12月8日から45年8月15日までの、日本軍による太平洋、東南アジア地域へ侵出によるアメリカ、イギリス、オランダなど連合軍との戦争。第二次世界大戦の一部であり、日中戦争とあわせてアジア・太平洋戦争、あるいは満州事変からを含めて十五年戦争とも言う。

 第二次世界大戦中の1941年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃から始まった、アメリカ、イギリスなどとの戦争。日中戦争の行き詰まりを打開し、資源を獲得する戦略目標から戦争に突入。開戦当初は日本軍は各地で勝利したが、戦線の拡大に伴い苦戦に陥った。1942年6月のミッドウェー海戦から制海権を失った日本軍が次第に後退、アメリカ軍の反撃が進み、44年7月のサイパン陥落、45年6月沖縄戦の敗北、さらに8月の広島長崎への原爆投下によって日本はポツダム宣言を受け入れ、8月15日に無条件降伏した。

開戦までの経緯

 日本軍は長期化した日中戦争を有利に終結させる方策を探ったが、和平交渉はいずれも失敗し、重慶の国民政府に対する英米の援蔣ルートを通じての支援がますます強まっていたことに焦りを感じていた。そのようなとき1940年5月にドイツ軍がオランダ・フランスを破ったことは、この両国の植民地である東南アジアに侵出する絶好の機会が到来したと軍部は判断し、膨張策に消極的な米内光政内閣を軍部大臣現役武官制を利用して倒し、第2次近衛文麿内閣を成立させた。
 1940年7月に成立した第2次近衛内閣は、ただちに閣議で「基本国策要綱」を決定し、ドイツ・イタリアの「ヨーロッパ新秩序」に呼応する「大東亜新秩序」の建設と「新体制」と言われる戦時体制の整備が為されるとともに、大本営は「武力南進」の方針を固めた。1940年9月フランス領インドシナ北部に進駐を強行、ほぼ同時に政府は日独伊三国同盟を締結して、アメリカを仮想敵国とする姿勢を明確にした。
 これに反発したアメリカが日本に対する経済制裁を強化すると、関係打開のため1941年4月から日米交渉が開始された。一方ではソ連との衝突を介意するため、同年4月に日ソ中立条約を締結した。しかし、日米交渉は難航、6月に独ソ戦が始まると、軍部は行動を急ぎ7月に南部仏印進駐を強行した。日米交渉中の軍事行動に反発したアメリカは8月に日本に対する石油輸出をストップを決定、日本は追い込まれる形となった。国内にはアメリカ・イギリス・中国・オランダによる日本包囲網をABCDラインと称し、その打破を叫ぶ声が強くなった。
 近衛首相は日米交渉に開戦回避の可能性を探ろうとしたが、41年9月6日の御前会議で陸軍大臣東条英機が強硬に日米開戦を主張、「帝国国策遂行要領」を決定、日米交渉が10月上旬までに打開されない場合は、開戦を決意するとされた。なおも日米交渉を継続しようとする近衛首相は辞任し、10月に東条英機内閣が成立した。東条首相は陸将、内相を兼務し、まさに軍部内閣であり、軍主導の国家体制が完成された形となった。東条内閣は11月5日に御前会議を招集、11月末までに日米交渉がまとまらなかったら、アメリカとの戦争に踏み切ることを決定、11月26日にアメリカの最終案としてハル=ノートが提示されたが、それは中国、北部仏印からの撤廃に加えて満州国の放棄を求めるなどの内容であった。東条首相はこれ以上交渉の余地なしとして開戦を決意し、12月1日の御前会議で天皇の裁可を得、12月8日ハワイのアメリカ軍基地真珠湾を奇襲攻撃、これによって太平洋戦争が開始された。
太平洋戦争の呼称 日本における「太平洋戦争」の呼称は戦後のもの。戦争開始直後の1941年12月12日に東條内閣は支那事変以降の戦争を「大東亜戦争」とすると閣議決定している。戦争の大義を、大日本帝国が東アジアを英米蘭など欧米諸国の支配から解放すし大東亜共栄圏をつくるための戦いであるとしたためである。戦後、GHQはこの語を戦時用語として使用を禁止、太平洋戦争が一般化した。しかし、日中戦争から連続した戦争の呼称としては「アジア太平洋戦争」という呼称が学術的には広く使われている。
 ただし、太平洋戦争という用語も、考えてみれば矛盾に充ちている。「太平洋」Pacific Ocian とは「平和の海」の意味であり、「平和の海の戦争」という意味になるからである。 → 太平洋の項を参照。

日米開戦時の国際情勢

 1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻から始まっていた第二次世界大戦は、1940年前半にはドイツ軍がフランスの大半を制圧し、圧倒的な優勢で進んだ。40年9月には日独伊三国同盟を結成した。しかし、41年後半になると、大きく戦局が転換した。イギリス本土上陸に失敗したヒトラーは再び東方の戦線に重点を移し、4月にバルカン侵攻を開始したが、それは独ソ不可侵条約で結ばれていたソ連との関係を悪化させ、6月に独ソ戦が開始された。これによってイギリスとソ連はドイツを共通の敵とすることとなり英ソ軍事同盟を締結した。  アメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領は、東南アジアにおける日本の侵出を警戒していたが、その日本と同じファシズム国家であり、同盟関係のあるドイツが強大化すること阻止する必要を考え、41年8月、イギリスのチャーチルとともに大西洋憲章を発表し、ファシズムとの戦争での協力を打ち出していた。  日本が41年9月6日の御前会議で対米戦争を決意した「帝国国策遂行要領」の決定よりも前のことであった。アメリカは国内の孤立主義や反ソ親ドイツ派の存在などもあって正式には参戦しておらず、武器支援にとどまっていたが、ローズヴェルト大統領は国論を参戦に向かって一致させる機会を待っている状態であった。

太平洋戦争の開始

真珠湾攻撃 1941年12月8日(アメリカ時間7日)早朝 日本海軍がハワイの真珠湾を爆撃。アメリカ太平洋艦隊に大きな被害をあたえる。10日にはマレー沖海戦でイギリス海軍を破り、日本軍は緒戦において大きな戦果を上げた。8日、日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告、同日両国も対日宣戦布告を行い戦争状態に入った。日本の宣戦布告が約1時間遅れたことから、ロースヴェルトは日本のだまし討ちであると強調し「真珠湾を忘れるな」を合い言葉に国民に戦争協力を訴えた。なお、オランダは当時本国はドイツ軍に占領されていたので、オランダ領東インド政庁が独断で対日宣戦布告を行い、後にロンドンの亡命政府が追認した。
アメリカの参戦 12月11日はドイツ・イタリアは三国同盟の約束によりアメリカに宣戦布告、アメリカも両国に宣戦したので、ここに第二次世界大戦は太平洋を挟んでの日米戦争、東南アジアでの日本とイギリス・オランダとの戦争という文字通りの世界戦争となった。厳密に言えば、ここまでは欧州の英仏対独伊の戦争(欧州大戦)とアジアの日中戦争が別個に展開してたのであり、1951年12月8日を期してそれが第二次世界大戦となったということもできる。アメリカ合衆国の参戦は第二次世界大戦に決定的な意味を持っており、その口実とされたのが日本軍の真珠湾攻撃であった。チャーチルは日本軍の真珠湾奇襲の報をうけ、これでアメリカが参戦が可能となり戦争に勝てると安堵したと回顧録に書いている。
連合国の形成 英米両首脳は12月22日、ワシントンで戦争指導会談を行い、対応を協議、早くも1942年1月1日にアメリカ、イギリス、ソ連など26ヵ国代表が連合国共同宣言を発して、民主主義の擁護のためにファシズムと戦うこと、単独では講和しないことを取り決めた。これを「連合国」United Nations といい、この名称がそのまま現在の日本で国際連合と言われる組織の原型となる。

太平洋戦争の過程

1.緒戦の勝利 太平洋戦争の緒戦における日本軍の進撃に東南アジア各地の要地を占領した。
 ・41年12月 香港占領。 →  12月 マレー半島占領。 →  42年1月 マニラ占領。 →  2月 シンガポール占領。 →  3月 インドネシア侵攻(ジャワ島占領)。 →  5月 フィリピン占領。 →  ビルマ侵攻
2.戦局の転換  ・42年6月 ミッドウェー海戦での日本軍の敗北。 →  8月 ガダルカナル島に米軍上陸。(同月、独ソ間のスターリングラードの戦いが始まる。
3.日本軍の退却  ・43年1月 ガダルカナル撤退。~2月。 →  44年4月 マリアナ沖海戦 →  7月 インパール作戦中止。 →  7月 サイパン陥落
4.本土空襲と沖縄戦  ・44年11月 B29による東京大空襲開始。 →  45年3月 硫黄島守備隊全滅。 →  4月 沖縄戦 米軍、沖縄上陸。6月に守備隊全滅。
5.敗戦  ・45年7月26日米英中三国、ポツダム宣言。日本に無条件降伏を韓国。日本政府、無視。8月6日 米軍、広島原子爆弾投下。 →  8月8日 ソ連の対日参戦。 →  8月9日 米軍、長崎に原爆投下。 →  8月14日 ポツダム宣言受諾通告し日本の無条件降伏決定。 →  8月15日 天皇、ポツダム宣言受諾を放送。 →  9月2日 日本、降伏文書に調印。太平洋戦争、日中戦争、第二次世界大戦終わる。

日本の占領地行政

 日本は東南アジアを軍事占領していく過程で、この戦いを「ヨーロッパ人種による植民地支配から、アジアの有色人種を解放する戦いである」と意義づけ「大東亜戦争」と呼称し、大東亜共栄圏の建設を掲げた。一つの側面として日本軍が民族運動を支援して、欧米植民地支配を排除したということも出来るが、日本軍が占領地域の諸民族に対する新たな抑圧者として登場したことも事実であった。
 1943年11月、大東亜共栄圏諸国の大東亜会議が東京で開催され、日本、中華民国(南京国民政府)、タイ、満州国、フィリピン、ビルマの6ヵ国とオブザーバーとして自由インド仮政府が参加し、「大東亜共同宣言」を発表、大東亜の解放と共存共栄、独立親和、互恵による経済発展、人種差別撤廃などをうたった。しかし、実態は日本の戦争を維持するための物的・人的資源の確保が優先され、その独立は形式的であった。また大東亜会議参加地域以外のインドネシアやインドシナ諸国では厳しい日本の軍政が行われ、また従来からの日本の植民地である朝鮮・台湾では民族解放どころか皇民化政策(日本への完全同化)が強められていった。
 このような日本軍国主義の支配の実態が明らかになると、支配地域各地で抗日武装闘争が活発になり、そこから戦後の真の独立が達成されていく。
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ノートの参照
第15章5節 ウ.独ソ戦と太平洋戦争