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皇民化政策

大東亜共栄圏構想により、日本支配下のアジア各地で採られた政策。

 1938年の第一次近衛文麿内閣による「東亜新秩序」声明、1940年の第2次近衛内閣の大東亜共栄圏の構想のもとで日本の軍国主義的膨張政策が進行し、1941年12月からの太平洋戦争の開始によって、日本は東南アジア各地を次々と占領した。
 その結果、日本の支配圏は朝鮮、台湾などの旧来からの植民地と、太平洋戦争の進行によって日本領とされた東南アジアの諸地域とを含むようになったため、それを統一的に支配する必要がとられることになった。それが皇民化政策と言われるもので、各民族独自の民族歌、民族旗は禁止され、日本語教育がほどこされ、神社参拝や天皇崇拝が強要され、宮城遙拝が奨励された。
 マレーシアやインドネシアなどイスラーム圏では宮城遙拝はメッカを礼拝するイスラーム教徒には特に受け入れがたいものであった。朝鮮や台湾では創氏改名が行われた。

台湾での例

 日本植民地支配下で早くから皇民化政策が進められていた台湾では、次のような報告がある。
(引用)武官総督制の復活にともない、本格的な皇民化運動が推進される。1937年4月1日から、台湾人の母語使用が制限され、新聞の漢文調も廃止された。乱暴にも、民衆の娯楽である伝統的演劇・音楽・武術なども上演と学習が禁止された。さらに台湾人の魂の領域にまで警察権力が踏み込み、伝統的宗教行事ならびに祭祀に対して制限と禁止を加えた。代わって日本語の強制使用、天照大神の奉祀と日本式姓名への改正運動(1940年2月11日)が、終戦直前まで強行された。そのいずれも、本格的侵略戦争に対応するために台湾人を日本の皇民に改造しようとした傲慢にして身勝手な営みにほかならなかった。<戴國煇『台湾』1988 岩波新書 p.80>
 → 李登輝の項を参照

朝鮮での例

 1910年以来、続いていた朝鮮総督府による日本の朝鮮植民地支配は、1919年の三・一独立運動を契機に、それまでの武断政治から文化政治に転換したが、その内容は憲兵制度から警察制度への転換、学制の日本化に伴う日本語教育の徹底など、朝鮮を日本に同化させることを目指したものであった。さらに第二次世界大戦期の1940年代には、創氏改名などの皇民化政策が一段と強められた。
 次の文は、1932年に朝鮮の慶安北道の両班の家系に生まれ、日本植民地支配下で少年時代を送り、朝鮮戦争の混乱を避けて来日し、朝鮮文学の研究者となって日本の大学で教えていた尹学準氏が『オンドル夜話』という著書で述べている、自身が体験した「皇民化教育」の姿である。
(引用)私が通った学校は南部朝鮮・慶尚北道の山奥にあった。山間僻地とはいえ、太平洋戦争のまっ最中だったから、学校に一歩足を踏み入れると、そこは日本精神、大和魂一色でぬりつぶされていた。1942,3年のころだったと記憶するが、開校二十周年を記念して校庭の隅っこに鳥居が建てられ、おもちゃのような神社が作られた。同時に「皇国臣民誓詞塔」や、薪を背負って本を片手にしたチョンマゲ姿のニノミヤ・キンジロウの銅像も建てられた。「皇国臣民の誓詞塔」が建つときに、私たち児童一人一人は毛筆で「皇国臣民の誓い」を書き、コンクリートの塔の中へ埋め込んだことを今でも鮮明に記憶している。当時、わが校に二人いた日本人教師のうちの一人が私たちの担任だったが、塔に魂を吹き込むのだから、まごころをこめて書くようにと口やかましく言われたものである。体操の時間などは男の子は銃剣術、女の子はなぎなたの訓練だった。・・・ <尹学準『オンドル夜話―現代両班考』1985 中公新書 p.51>
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ノートの参照
第15章5節 ウ.独ソ戦と太平洋戦争