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日ソ共同宣言

1956年、平和共存の情勢下で実現した。しかし、平和条約には至らず領土問題は課題として残った。

 1956年10月、モスクワで調印された日本とソ連の戦争終結・国交回復の宣言。日本側代表は鳩山一郎・河野一郎ら、ソ連側はブルガーニン首相・フルシチョフ第一書記が署名した。双方が戦争終結を確認し、国交関係を樹立することをうたったが、平和条約には至らなかった。それは択促・国後・歯舞・色丹の北方領土問題が解決されず残ったからであり、「平和条約締結に関する交渉を継続する」という表現に留まった。しかしソ連は、この宣言の第9条で、平和条約締結後に歯舞・色丹については日本側に「引き渡す」ことを約束している。

日ソ国交回復の経緯

 朝鮮戦争の勃発を受けて、急遽進展した日本と連合国との講和会議の結果、1951年のサンフランシスコ平和条約が締結されたが、ソ連は同条約に参加せず、日本とは法的には戦争状態が継続する状態であった。日本では1955年に55年体制が始まり、保守合同して成立した自由民主党の鳩山一郎内閣が従来の吉田茂自由党内閣の親米一本槍外交に代わって日ソ国交回復を掲げ、ソ連では1956年2月にフルシチョフによるスターリン批判が行われて平和共存路線に転換が図られる日ソ交渉が行われることとなった。

日ソ国交回復の影響と課題

 また、日ソ間の戦争状態が終結したことは、それまでソ連の拒否権行使で実現してこなかった懸案の日本の国際連合加盟を実現させることとなった。しかし北方4島をめぐる北方領土問題では交渉が難航し、国交回復はできたが領土問題については棚上げで終わったため、現在に至る課題を残したと言える。
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ノートの参照
第16章2節 ウ.アメリカの繁栄と西欧・日本の復興