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グアテマラ

ラテンアメリカ諸国の一つ。左派のアルベンス政権が成立したが、1954年、米CIAによって転覆される。

グアテマラ GoogleMap

アルバラードによるグアテマラ征服

 ラテンアメリカ、中米諸国の一つで、メキシコの南、太平洋側にある(大西洋側がベリーズ)。4~9世紀にかけて、独自のマヤ文明が繁栄していた。スペイン人の征服者コルテスはメキシコを征服した後の1523年、二人の部下を南部征服に派遣した。そのうちのアルバラードが現在のグアテマラを征服した。
 コルテスが、アルバラードをグアテマラ征服に派遣した経緯と残虐な行為については、宣教師ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(p.71-82)に詳しく述べられている。
(引用)スペイン人たちは(インディオの)領主や兵士たちを皆殺しにし、そのほかの者をことごとく地獄のような奴隷状態へと追いこめた。スペイン人たちは彼らに貢物として奴隷を要求したが、インディオたちは奴隷を所有していなかったので、仕方なく息子や娘を差し出した。スペイン人たちはその奴隷を売り捌くために船に乗せ、ペルーへ送った。・・・1524年から1540年にいたる15,6年の間に、・・・(スペイン人は)400万か500万のインディオを殺害した。さらに、今なお飽き足らず、彼らは残った人びとを殺戮し続けている。従って、いずれ彼らは、そのほかの人びとをも全員殺してしまうことになるであろう。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.80>

親米独裁政権

グアテマラ共和国 国旗
グアテマラ共和国 国旗
 グアテマラは1821年にスペインから独立宣言を行ったが、一時メキシコ帝国に併合され、39年に独立共和国となった。
 1873~85年のパリオス大統領の下で自立した資本主義体制の基礎を作ったが、1898~1920年のエストラダ大統領は親米政策を採り、その門戸開放政策を助けた。1930年からウビコ将軍による軍事独裁政権が続いたが、44年に民衆蜂起によって独裁政権が倒れ、民主主義と自由を実現した。

グアテマラ革命

 1944年の民衆蜂起を指導したアルベンス大佐は、1950年に左派政権を樹立、1952年には農地改革を実施、1953年この国最大の地主であるアメリカの独占企業ユナイテッド=フルーツ社の所有地を没収した。この1950~54年の左派政権による反米的諸政策がグアテマラ革命と言われている。
 それに対してアメリカが硬化し破壊工作を展開した。当時の国務長官ダレスはそのユナイテッド=フルーツ社の重役だった。54年にアメリカのCIA(中央情報局)の支援を受けた反革命クーデタが起こり、政権は倒されてしまった。それ以後、グアテマラは長期の軍事政権支配に置かれた。1986年に民政に移管したが、軍の政治介入がつづき、安定していない。

グアテマラ内戦

1980年代に親米軍事政権に対する左翼勢力の反乱から起こった内戦。軍事政権によるマヤ人に対する大量殺害が起こった。

 1980年代前半に、グアテマラの親米軍事政権と、反政府勢力の左翼ゲリラの内戦はピークを迎えた。軍事政権はその時、マヤ人の集落を襲撃、破壊し、数千人を殺害した。マヤ人が左翼ゲリラに協力している、というのが口実だった。さらに軍事政権は100万人以上のマヤ人を強制的に移住させた。
 かつて中米一帯で高度なマヤ文明を築いたマヤ人は、16~17世紀の間のスペインの植民地化によって、90%が絶滅させられていた。残されたマヤ人は、苛酷な人種差別や迫害を受けながら、独自の言語と文化を守っていた。グアテマラの軍事政権によるマヤ人迫害は、1981年から83年に最も激しくなり、その後も続いたが、ようやく1996年に政府と植生力の間で和平協定が結ばれ、内戦は停止された。
マヤ人に対するジェノサイド  和平協定によって設置された真実和解委員会が調査し、1999年に発表した報告によると、内戦によって20万人のグアテマラ人が殺害されたり行方不明になり、何十万の人が残酷な拷問を受けた証拠も出された。委員会はグアテマラ政府はこのうち93%に関わり、暴力行為の83%がマヤ人を対象としたものであると認定し、グアテマラ政府によるジェノサイドであると裁定した。
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