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サリット

タイの軍人、政治家。1957年、軍事クーデタでピブン政権を倒し、さらに翌年再びクーデタで権力を握り憲法、議会を停止し、開発独裁・権威主義体制を進めた。63年から体制はタノーム政権に継承された。

 サリット(正確にはタリット=タナラット)はタイの軍人で政治家。ピブン政権を、警察を押さえたパオ=シーヤーノンとともに、軍を押さえて支えていたが、1957年、ピブン首相が総選挙での大規模な不正が発覚して政府批判が強まったとき、パオとの確執が表面化し、権力奪取の好機とみたサリットは腹心のタノームとプラパートと謀ってクーデタを決行してピブンを辞任に追いこんだ。サリットは首相には就任せず、暫定政権を発足させたが、同年12月の総選挙ではサリット支持派は多数を取れず、1958年10月、サリットは「革命」と称して再びクーデタを起こして議会を停止し、翌年2月、自ら首相となった。

「タイ式民主主義」を標榜

 サリットはこれまでのタイにおける民主主義を否定し、タイ式民主主義の必要性を訴えた。彼は1932年立憲革命以降の民主主義はすべて西欧型の民主主義であり、タイの国情に合ったものではないと説明し、タイに相応しい民主主義の形を作る必要があると主張した。そのタイ式民主主義とは、国王を元首とした民主主義であるとして国王の重要性を強調し、20世紀初頭のワチラーウット王(ラーマ6世)の説いた民族・宗教・国王の三原則を持ち出して国是とした。また「革命」は抜本的な政治体制の変革であるが、国王を元首とする体制は変わらないと強調した。
 サリットの「タイ式民主主義」は民主主義を謳ってはいるが実際の施策は非民主的であり、「革命」によって憲法と国会は廃止され、サリットの発する「革命団布告」が法律を代替し、あたかも絶対王政時代を彷彿とさせるものであった。暫定憲法も首相に大きな権限を認めたものであり、恒久憲法は次のタノーム政権の1968年まで成立しなかった。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.204>

権威主義・開発独裁を推進

 サリットは1959年2月首相に就任、それから1963年まで軍を背景とした独裁政治を維持した。その政治は、国王への忠誠を絶対的な価値とする権威主義を掲げ、議会政治や政党政治を腐敗の温床であり、共産勢力の侵出をもたらすものとして否定し、積極的な「開発」によって経済発展を実現するというもので開発独裁の一形態と言える。外交政策ではおりから強まっていたベトナムでの共産主義勢力の増大を抑えるためのアメリカ(ケネディ政権)との連携強化を進めた。彼は病気のため1963年に死去したが、その権威主義・開発独裁は次のタノ-ム=プラパート政権に継承された。またその後にタイ軍事クーデターによって成立する政権の原型となった。
 サリットは、権威を高めるため国王の存在を最大限利用した。この時期の国王プミポン(ラーマ9世)は頻繁に伝統的行事を執行し、その地方行幸は辺境に及び、王族の動向はメディアを通じて国民に知らされた。誠実な国王の資質がその権威の高揚の要因の一つだったが、タイの国王がこのような形で国民にとっての重要な、政治的意味合いをもつようになったのは、わずかに1960年代初頭のサリット政権の時代からに過ぎない。
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