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ピブン

タイの政治家で1932年のタイ立憲革命を指導、首相を務める。

 タイの軍人、政治家で1932年のタイ立憲革命を成功させた。その後、戦前の1938年から1945年までと、戦後の1948年~1957年までの2度にわたり、首相を務めた。その名ピブンは省略形で正しくはピブンソンクラーム。

戦前期のピブン

 戦前においてはラタナコーシン朝の国王が若かったこともあって、強大な権力を持ち、1939年にはそれまでの国号シャムをタイに改めた。これはインドネシアのタイ族を含む大国家の建設をねらう面がったと言われている。1940年には、フランスが本国でドイツに敗れたことを受けて、インドシナでフランスに割譲した領地を奪回しようとカンボジアに侵攻し、日本の調停を受け、その一部を奪回した(戦後にフランスに返還)。日本軍がフランス領インドシナに進駐してくると中立を声明した。

第二次世界大戦

 しかし1941年12月、太平洋戦争が始まると日本軍がタイに上陸、若干の交戦の後講和に応じ、日本軍の南方作戦に協力することとなった。1943年7月の日本の東条首相とのバンコク会談では、日本のビルマ侵攻に協力するかわりに、ビルマの一部とマレー半島の一部をタイ領に編入するという共同声明を発表した。ただ、同年11月の東京で開催された大東亜会議にはピブン自身は出席せず、代理を参加させた。日本が敗北するとピブンは対日協力者として捕らえられたが戦犯には問われなかった。

戦後のピブン

 戦後のタイにおいて、1947年に起こった軍部クーデターを背景にして、48年に政権に復帰した。外交面では親米反共路線をとり、アメリカ・日本からの援助による経済の安定をはかるとともに、政党活動を自由にして、西欧型の議会制政党政治を定着させようとした。1954年9月にはアメリカが結成した共産圏包囲網の一つ、東南アジア条約機構(SEATO)に加わった。しかし、政党活動が活発になるとピブン自身が選挙に勝つため金銭選挙に走り、政党も乱立して政情が不安定になった。このような未熟な政党政治が混乱に陥ると、共産主義勢力の侵出を恐れた軍部は、1957年にサリット将軍を中心にクーデターを決行し、ピブン政権は倒れ、ピブンははじめアメリカへ、後には日本に亡命した。

Episode 日本で死んだピブン首相

 ピブーン首相は、クーデタ後、太平洋戦争時代のタイ駐屯軍司令官であった中村明人中将などを頼って日本に亡命し、そのまま1964年に、神奈川県でその生涯を閉じている。<末廣昭『タイ 開発と民主主義』1993 岩波新書 p.22>