印刷 | 通常画面に戻る |

ピブン

タイの軍人・政治家で1932年のタイ立憲革命を指導、38年から首相を務め、39年に国号をシャムからタイに改めた。第二次世界大戦では日本に協力したため戦後に退陣、48年に復帰して再び首相となり、独裁的な政治を行った。1957年、軍部クーデタで失脚した。

ピブン

ピブン

 タイの軍人、政治家で1932年6月のタイ立憲革命を成功させた。その後、戦前の1938年から1945年までと、戦後の1948年~1957年までの2度にわたり、首相を務めた。その名ピブン(またはピブーンとも表記)は省略形で正しくはプレーク=ピブンソンクラーム Pleak Phibunsongkhram 。

立憲革命

 タイ王国の若手軍人としてフランスのパリに留学、その地で同じく留学生のプリーディーらと立憲政治の実現を目指す人民党を結成し、第一次世界大戦後の国際情勢の中で祖国タイの政治の近代化が必要であると自覚した。帰国後の1929年、世界恐慌がタイにも及ぶと、王政政府の無策から国民の困窮が深刻となると、ピブンは軍部と協力して1932年6月に立憲革命を実行し、臨時憲法の制定を国王に認めさせた。

国号をシャムからタイに変更

 立憲革命によって成立した内閣が内部対立から不安定になると、軍での影響力を強めたピブンが、1938年12月に首相に就任、ラタナコーシン朝の国王が若かったこともあって、強大な権力を持つようになった。
 その政治は、厳しさを増す国際情勢の中で、タイ国民に対して国家への帰属意識を強くもたせ、国六を高めることに努め「国家信条」(ラッタニョム)を公布し、まず1939年10月3日にはそれまでの国号シャムをタイに改めた。これはインドネシアのタイ族を含む大国家の建設をねらう面があったと言われている。

第二次世界大戦 枢軸側で参戦

 1939年9月、第二次世界大戦が勃発すると、当初は中立を宣言したが、1940年にフランスが本国でドイツに敗れたことを受けてインドシナでフランスに割譲した領地を奪回しようとカンボジアに侵攻し、日本の調停を受け、その一部を奪回した(戦後にフランスに返還)。日本軍がフランス領インドシナに進駐(南部仏印進駐)してくると中立を声明、世界に「平和を訴える」放送を行い、バンコクを無防備都市とすると宣言した。
 しかし1941年12月8日、太平洋戦争が始まる同時に日本軍がタイに上陸、若干の交戦の後、ピブンは講和に応じ「日本・タイ同盟条約」を締結し同盟国となり、日本軍の南方作戦に協力することとなった。1942年1月、日本がビルマ侵攻を本格化させるとイギリス・アメリカに宣戦布告し、枢軸国として参戦した。
大東亜会議には不参加 1943年7月の日本の東条英機首相とのバンコク会談では、日本のビルマ侵攻に協力するかわりに、ビルマの一部とマレー半島の一部をタイ領に編入するという共同声明を発表した。ただ、同1943年11月の東京で開催された大東亜会議にはピブン自身は参加を拒んだ。日本の再三の出席要請にも応じず、結局、代理を参加させただけだった。この頃になると、ピブンは日本軍の勝利を疑いだしていたこと、また国内に日本が同盟国としてよりも、占領国としてふるまい、泰緬鉄道の建設などに挑発され、物資も日本軍優先とされたことから物不足のため国民の不満が高まっていたことが背景にあった。

戦後のピブン

 ピブンは戦争末期に首相の座を降りたが、日本が敗北して終戦を迎えると、対日協力者として捕らえられた。しかし、タイの連合国への宣戦布告は日本に強制された者という訴えは一定の効果を生じ、戦犯には問われなかった。またタイも敗戦国ながら、イギリスの支持もあって最も早く国際連合に加入するなど、犠牲を最小限に留めることができた。
 ピブンはしばらくはなりを潜めていたが、戦後タイの情勢の変化の中で再び表舞台に立つこととなった。1947年に起こった軍部クーデタを背景にして、翌48年に政権に復帰した。外交面では親米反共路線をとり、アメリカ・日本からの援助による経済の安定をはかるとともに、政党活動を自由にして、西欧型の議会制政党政治を定着させようとした。1954年9月にはアメリカが結成した共産圏包囲網の一つ、東南アジア条約機構(SEATO)に加わった。
 しかし、政党活動が活発になるとピブン自身が選挙に勝つため金銭選挙に走り、政党も乱立して政情が不安定になった。このような未熟な政党政治が混乱に陥ると、共産主義勢力の侵出を恐れた軍部は、1957年にサリット将軍を中心にクーデターを決行し、ピブン政権は倒れ、ピブンははじめアメリカへ、後には日本に亡命した。

Episode 日本で死んだピブン首相

 ピブーン首相は、クーデタ後、太平洋戦争時代のタイ駐屯軍司令官であった中村明人中将などを頼って日本に亡命し、そのまま1964年に、神奈川県でその生涯を閉じている。<末廣昭『タイ 開発と民主主義』1993 岩波新書 p.22>
印 刷
印刷画面へ