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タイ軍事クーデター

第二次大戦後、タイでは軍事クーデターが多発した。

 戦後のタイピブン政権、サリット政権の軍事クーデター以後、クーデターと政権の成立には、軍事政権の登場→憲法制定→政党政治の復活→政治権力の腐敗→軍によるクーデター→軍事政権の登場、という悪循環が何度も繰り返されて、場合によっては市民集会やデモに軍が発砲して犠牲者が出るという痛ましい事件も相次いでいる。サリット政権以後の主な権力権力と、クーデター及び民衆弾圧事件にはには次のようなものがあった。<末廣昭『タイ 開発と民主主義』1993 岩波新書 などより>

・タノム=プラパート政権

:1963~73年 サリット政権を引き継いだ開発独裁政策を推進。ベトナム戦争が深刻化。ASEAN結成。70年代、学生運動激しくなる。60年代、日本商品の流入が増大してきたことに対して、1972年、日貨排斥(日本製品不買)運動起こる。

・10月14日政変

 1973年 権力中枢の不正蓄財が明るみに出て、反政府運動激化。軍が発砲して市民多数が死傷。国王が特別声明を発し、タノム首相ら辞任、国外に逃亡。民衆運動で民主化が進み、労働運動、学生運動、武装闘争方針をとるタイ国共産党の活動が活発となる。ベトナム戦争終結後、ベトナム、ラオス、カンボジアに社会主義政権が生まれたことが、軍部・右翼保守派の危機感を増した。

・血の水曜日事件

 1976年10月6日 民主化の進展を警戒した軍部と右翼が学生運動の拠点タマサート大学を武装襲撃し発砲、死者46名・逮捕2000名(じっさいは死者100名以上、行方不明100人以上)。

・プレム政権

 1980~88年 プレムは軍人出身だが、政権にテクノクラートを配して調整型の政治を行い、国王権威を最高に利用する。経済成長に成功し、NIEsに近づく。民選首相の声強まり88年総選挙に敗れ退陣。

・チャートチャーイ政権

 1988~91年 タイ民族党党首。血の水曜日事件直後に成立したが短命だったセーニー内閣に次いで、12年ぶりの文民首相。「インドシナを戦場から市場へ」と提唱。一族や実業人で内閣を組織、国営企業の民営化をIT関連を中心に急激な経済成長を実現したが、金権内閣と比非難されるようになる。

・1991年軍部クーデター

 2月23日の金権内閣打倒を掲げる軍人が決行。国民もクーデターを暗黙の内に支持。チャートテャーイ内閣倒れ、暫定内閣を経た後、憲法を制定、92年スチンダー陸軍司令官が首相就任。

・1992年5月の流血事件

 5月14日 スチンダー司令官の総理就任に対し、軍人内閣に反対した市民が集会。たちあがったのは都市中間層で「携帯電話を持った市民」といわれた。軍が集会に向かって発砲、53人の死者が出る。事態収拾に乗り出したプミポン国王がスチンダーを辞任させ、チュアン(穏健な民主党の党首)が首相となった。

・チュアン政権での経済成長

 文民内閣のもとでバブル経済が続いたが、次の軍人内閣チャワリット内閣の期、1997年にアジア通貨危機が勃発、再びチュアンが首相となった。

・タクシン政権と06年クーデター

 タイ愛国党を率いる警察官僚出身の実業家タクシンが、低所得者救済などを掲げて国民的な人気を集め、2001年の大統領選挙に当選し、タクシン政権が成立した。しかし一族の不正な蓄財などが明るみに出て、またクーデターが起こった。2006年9月19日、タクシン首相が国連総会に出席して留守の間に軍がクーデターを断行。ソンティ司令官が実権を握り、暫定首相として元軍人でスラユットが就任した。プミポン国王はクーデター支持を表明。政府は愛国党に解散命令を出した。タクシンは非常事態宣言を出して対抗しようとしたが、裁判所はその無効を判決し、彼自身がタイに戻れない状態になっている。アメリカなど各国は戒厳令を早く解除し完全な民政への移行を勧告しているが、国内にはまだタクシン支持者も多く、事態は収まっていない。しかし、これもタイ「名物」の軍事クーデターという感じで、国民は冷静に受け止めているようである。
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書籍案内

末廣昭
『タイ 開発と民主主義』
1993 岩波新書