印刷 | 通常画面に戻る |

タイ(1) タイ人の自立

現在のタイの地に、13世紀以降、タイ人が移住し、いくつかの王朝が交代した。

 現在のタイ国の地域、チャオプラヤ川に最初に現れた国家は、モン人ドゥヴァーラヴァティ王国であった(タイ人の国家ではないので、通常はタイの王朝には加えない)。すでに上座部仏教を取り入れたこの国はチャオプラヤ川上流に栄えていたが、東のクメール人の侵攻を受けて衰えた。かわって13世紀から中国南部の雲南地方にいたタイ人がモンゴルに押される形で南下を開始し、「タイ族の大いなる沸騰」といわれる活動を開始して国家を建設していく。
 → (2)ラタナコーシン朝のシャム  (3)立憲君主政となり、国号をタイに変更  (4)第二次世界大戦 日本の侵攻  (5)戦後のタイ  (6)現代タイ

タイ人国家の変遷

スコータイ朝:その最初がスコータイ朝で、1257年頃、チャオプラヤ川上流のスコータイを中心に建国した。第3代のラームカムヘーン王の時の1283年、タイ文字を作り、上座部仏教を保護した。
アユタヤ朝:14世紀には中流のアユタヤを中心にアユタヤ朝が出現し、スコータイ朝を併せ、ビルマやカンボジアとも争い、領土を広げた。このころのタイ人の国家はシャムといった。アユタヤ王朝はチャオプラヤ川から海上に出て、交易でも栄えた港市国家であった。17世紀には日本人の活動も及んできて、日本町が作られ、山田長政などが活躍した。1767年ビルマのコンバウン朝の侵入によってアユタヤが破壊され、アユタヤ朝は滅亡した。その後、地方政権の一つであったトンブリー朝のタークシンが立って、ビルマ人を撃退し、独立を回復したが、王に奇行が多く、部下のチャクリが王位を奪ってラタナコーシン朝が成立した。
北部の王朝:なお、13、14世紀頃には、チャオプラヤ支流のビン川流域でビルマに近いチェンマイにはランナー王国(「百万の田」の意味)、ラオスには同じタイ系のラオ人のランサン王国(「百万頭の象」の意味)があった。
ラタナコーシン朝:1782年、チャクリラーマ1世としてラタナコーシン朝(チャクリ朝、バンコク朝とも言う)を建国し、都バンコクを中心としてやはり交易と農業で栄え、北部のランナー王国や南部マレー半島のイスラーム勢力を次第に統合して、その領土は現在のタイの倍ほどの広さとなり、現在のラオスやカンボジア、マレーシアにも及んでいた。

タイ(2) ラタナコーシン朝のシャム

19世紀以降のタイ(ラタナコーシン朝シャム)、イギリス・フランスの侵略を受けながらも独立を維持した。

タイは正式の国号はシャムであった。)のラタナコーシン朝は、19世紀からイギリス、フランスの侵出が始まり、植民地化の危機を迎え、1855年、ラーマ4世はイギリスとの通商条約であるボーリング条約を締結、さらに同様な不平等条約を欧米諸国と結び自由貿易を受け入れた。同時に外国人顧問を多数受け入れ、近代化を図った。次のラーマ5世(チュラロンコン大王)は巧みな外交でイギリスとフランスを操り、両者が牽制し合ったこともあって、タイは国土を大幅に割譲せざるを得なかったものの、東南アジアで唯一、植民地化の危機を脱し、独立を維持することができた。

タイが植民地化しなかった事情

 ラーマ4世とラーマ5世の時代、19世紀後半はビルマを併合したイギリスとフランス領インドシナを獲得したフランスの双方から、激しく領土の割譲を迫られ、その主権も脅かされた時期であった。1893年(日清戦争の前年)7月13日、フランスはチャオプラヤ川河口のパークラムから軍艦をさかのぼらせ、バンコクのフランス領事館前に停泊し、メコン川東岸のタイ領ラオスの割譲を迫った。パークラムでは両軍が衝突しタイ側に20人の死者が出た。やむなくラーマ5世はフランスの要求をのみメコン東岸のラオス全域の割譲などを受け入れた。フランスの侵攻をみたイギリスは1896年、英仏宣言でチャオプラヤ川流域を両国の緩衝地域とし、さらに1904年の英仏協商でチャオプラヤ川の西部と西南部はイギリス、東部と東南部はフランスの勢力圏と承認し合った。このようにタイが干渉地域とされたことによって老国の直接侵攻はこれ以上進むことはなかった。またラーマ5世は、近代化に当たり、欧米各国から顧問を招いたが、特定の国から多くなるとその力が強くなるので、その数のバランスをとるなどの工夫をした。
 ラタナコーシン朝は現在も続いており、1932年の立憲革命からは立憲君主政の政体をとっている。国号を1939年にシャムからタイに変更した。

タイ(3) 立憲君主政となり、国号をタイに変更

第一次世界大戦、1932年に立憲君主政となる。1939年に国号をシャムからタイに変更した。

国号をシャムからタイに変更

 ラタナコーシン朝のタイ(シャム)は第一次世界大戦後では戦勝国に加わり、国際的地位が上がったが、一方国内では国王による絶対主義の政治を立憲政治に改めるべきであるという知識人や軍部の一部に現れてきて、大きな岐路に立たされた。1932年、フランス留学から帰った軍人のピブンや官僚のプリーディーらが、人民党を結成し立憲革命を実行、国王ラーマ7世もそれを受け入れ、タイは立憲国家となった。ピブン政権は近代的主権国家の樹立を目ざし、またタイ人の国家である自覚をたかめるため、1939年に国号をシャムからタイに変更した。

Episode タイの大国主義

 1939年6月24日に立憲革命記念日に際し、ピブン首相は総理府布告をもって、それまで用いられていた国名を「シャム」Siam から「タイ」Thailand に改めた。タイ人はタイ語の thai が「奴隷」に対して「自由」を意味すると主張しているが、語源的には語頭に無気音をもつもう一つの民族名 tai に近い。知識人の中にはこの変更は国境外にいる「タイ族」をも勢力に含めようというピブンの覇権主義にほかならないとして、タイを使用するのを拒否する少数派もいる。<『タイの事典』同朋舎 p.191 石井米雄>
※そういえば、タイ映画『少年義勇兵』には、少年兵を前に指揮官がタイに変更した意義を演説する場面がありました。この映画は、ピブン時代のタイで組織された少年義勇兵が日本軍と戦うという映画です。 

タイ(4) 第二次世界大戦 日本の侵攻

第二次世界大戦ではタイは当初は日本に協力の姿勢を見せカンボジアに侵攻した。しかし、太平洋戦争が始まるとビルマ・マレーの英領をめざした日本はタイに侵攻した。ピブン首相は日本と同盟関係を結び英米に宣戦布告した。それ以後微妙な立場に立たされる。

 第二次世界大戦の時期のタイは立憲革命後のピブン政権下にあり、当初は日本軍と協力する姿勢を示した。1940年、ドイツ軍のパリ占領に乗じてタイ軍はカンボジアに侵攻、フランス軍と交戦し、日本の仲裁で領土回復に成功した。

日本軍の侵攻

 日本軍が南部仏印に進駐し、連合国側は日本に対する経済制裁の強化を打ち出すと、両陣営に挟まれたタイに危機が迫った。ピブンは中立を声明、世界に「平和を訴える」放送を行い、バンコクを無防備都市とすると宣言した。日本軍の侵攻を防ぐねらいであった。ところが、1941年12月8日、日本軍はタイ南部のチュンポンなどに上陸、現地の軍と警察が交戦した。このとき、少年義勇兵が動員された。ピブンは直ちに停戦を命じ、軍政を行わずタイの独立と主権を尊重する替わりに日本軍の通過を認めた。続いて「日本・タイ同盟条約」を締結し同盟国となった。

枢軸側に参戦

 1942年1月にはイギリス軍がバンコクを空爆、日本はビルマ侵攻を本格化させ、ピブン政権も英米に宣戦布告し、タイは枢軸国で参戦する形となった。ピブン政権は満州国承認、汪精衛政権承認など日本よりの姿勢を強め、1943年7月には日本の東条首相とのバンコク会談で、日本のビルマ侵攻に協力するかわりに、ビルマの一部とマレー半島の一部をタイ領に編入するという共同声明を発表した。ただ、同年11月の東京で開催された大東亜会議にはピブン自身は出席せず、代理を参加させた。一方、海外のタイ人の中に反日組織として「自由タイ」が結成された。

抗日運動とピブンの失脚

 この間、日本はビルマ侵攻の準備を進め、泰緬鉄道建設を開始、東南アジア諸地域から集めた捕虜を使役し、多数の犠牲者を出した。タイ国会ではピブンの親日政策を批判するプリーディなどが自由タイと連携し、43年夏から抗日運動を開始、インドのイギリス軍や重慶の国民政府と連絡を取り始めた。44年7月にはピブンの首都移転案が国会で否決され、ピブンは辞任した。プリーディらは武装蜂起を計画したが、それを実行する前の45年8月15日、日本軍が降伏した。イギリスはタイを敗戦国として扱おうとしたが、アメリカはフランスと同様に扱い、タイの宣戦布告を不問とし、その戦争責任は問われないことになった。しかし、ピブンら対日協力者は戦犯として拘束された。<『タイの事典』p.197 市川健次郎>

Episode タイの『少年義勇兵』

 第二次世界大戦中、タイ軍と日本軍が交戦した頃はあまり知られていない。しかし、1945年12月8日、日本軍は中立を宣言していたタイに突如上陸した。ビルマへの侵攻に備えた軍事行動であった。このとき、上陸地点のチュンポンで日本軍と対戦したタイ軍の中に、少年義勇兵がいた。彼らは急きょ集められた14歳から17歳の少年たちであった。この事実を掘り起こして映画にしたのが、2000年にユッタナー=ムクダーサニット監督の『少年義勇兵』。戦争に直面した少年たちをみずみずしく描いた佳作である。チュンポンで暮らしていた日本人も重要な役割で描かれている。戦闘場面に出てくる日本兵は服装など実際とは違うようだが、アジアの人々にとって日本軍の侵攻がどのように思われていたのかを考えさせる作品である。現在、DVDで見ることが出来る。

タイ(5) 戦後のタイ

第二次世界大戦後、アメリカの反共軍事体制に組み込まれる。国内政治では不安定な状態が続き、クーデターによる軍政が続き、民主化は遅れた。

戦後のタイ

 タイは太平洋戦争では、ピブン政権が日本と同盟関係を結び、英米に宣戦布告をした国であったが、そのときのピブン政権に対して反日路線を主張したグループ(自由タイ)がアメリカに協力したことから、枢軸国としての責任をとらされることなく、戦後はアメリカの支援で経済復興を進めることができた。

ピブンの復権

 対日協力者として捕らえられていたピブンは、1948年に政権に復帰し、親米反共路線をとり、1954年9月には東南アジア条約機構(SEATO)に加わり、東南アジア共産化の脅威と戦うアメリカのパートナーとなった。ただし、かつて立憲革命を指導したピブンは、国内政治では西欧型の議会制政党政治を定着させようとし、政党活動を自由にした。経済政策でも民間企業の保護を主眼とした。しかし、ピブン自身の金銭選挙に対する非難が強まり、1957年にサリット将軍を中心としたクーデターが起こり、ピブン政権は倒れた。

サリットの開発独裁

 1959年に政権の座に着いたサリットは、国王を「父」、国民を「子」と位置づける「タイ式民主主義」を掲げて政党政治の混乱と共産勢力の台頭を抑え、一方で外国資本を積極的に導入して「開発」(タイ語でパッタナー)を推進し、開発独裁を展開した。サリットは63年12月に病気で死去したが、その後に現れた政権はいずれも軍を背景として議会政治を抑え、開発を進めるという開発独裁の形態をとっている。また、たびたびクーデターが起こっており、そのたびに国王が調整するという、独自の立憲君主政が機能し、現在に至っている。

タイ(6) タイ王国の現代。国土と民族。政治。

現代のタイ王国の概要

国土

 現在のタイはインドシナ半島の中央部に位置し、チャオプラヤ川の流域全域とマレー半島中部を占める。東はラオスとカンボジア、西はミャンマー(ビルマ)、南はマレーシアに接する。国土はチャオプラヤ川流域には平野が多く、古くから米その他の農業が盛ん。その東側は国境のメコン側までなだらかな高原が続く。

民族と宗教

 タイ人はタイのほかにラオスやカンボジア、ミャンマー北部、中国南西部にも存在している。シナ=チベット語族に属し、最初からこの地にいたのではなく、11~13世紀頃、中国南西部からチャオプラヤ川流域に移動してきたと考えられている。文化的にはインド文化の影響が強く、ビルマなどと同じく小乗仏教が盛んであり、現代においても寺院・僧侶は崇拝されており、建国の理念の一つとされている。なお、南部のマレー版と運はイスラーム教徒が多く、彼らの中には過激な分離運動を行っているものもある。

政治と経済

 政治はラタナコーシン朝の王をいただく立憲君主制。憲法と議会があり選挙も実施されているが、時として軍部クーデターが起きることが多い。最近でも2006年にタイ軍事クーデターが起こり、タクシン首相が失脚、戒厳令が布かれた。
 経済では1980年代からの工業化が著しいが、NIEs諸国に比べ、米などの農作物の比重が大きいのが特徴で、最近はアグリビジネスといわれるエビの養殖(日本への輸出向け)などが急速に発展している。バブル気味であった急速な発展は1997年のアジア通貨危機で破綻したが、現在はその打撃からも回復している。

タイの国旗

 中央の紺色は国王、その外側の白は宗教、赤は民族を象徴する。1917年ラーマ6世の時制定された。

タイのクーデター

 タイではクーデターは珍しい現象ではない。戦後に限っても成功したクーデターは9回、噂や計画は毎年あり「クーデターは年中行事の一つ」とさえ言われている。クーデターが繰り返されるのは「タイ政治の悪循環」のためである。「クーデターを実施した軍は、憲法・国家・政党をまず否定し、権力を掌握するが、政治状況あ平常に復帰すると暫定議会を設置し、新しい憲法の準備にかかる。・・・新しい恒久憲法が公布されると、それにもとづいて総選挙を実施し、議会の復活と政党の政治参加を認める(「手続き民主主義」の容認)。しかし、議会政治を足かせと感じるや、軍は「共産主義の脅威」や「政党政治の腐敗」を理由に、再びクーデターをだんこうする。」この悪循環の中で、クーデターであれ新憲法の制定であれ、国王の承認が不可欠であることと、政治的指導者には社会的公正(タイのことばで「タム」(仏法のダルマに当たる)の実現が要請されるというのが「タイ式民主主義」の特徴である。タイの国民統合や政治をみていく上で決定的に大事なのは国王・宗教・民族の三つを原則とする国是(タイの横三色の国旗の紺は国王、白は宗教、赤は国民を象徴している)である。<末廣昭『タイ 開発と民主主義』1993  岩波新書 p.11-12,p.28> → タイ軍事クーデター
印 刷
印刷画面へ
DVD案内

タイ映画
『少年義勇兵』
2000 ユッタナー=ムクダーサニット監督
書籍案内

末廣昭
『タイ 開発と民主主義』
1993 岩波新書