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トルクメン/トルクメニスタン共和国

中央アジア、イラン・アフガニスタンを国境を接するトルコ系民族の国家。

 現在のトルクメニスタン共和国は中央アジア5ヵ国(トルキスタン諸国)の一つで、その最南部、イランとアフガニスタンに国境を接する。国土の大半はカラクーム砂漠におおわれている。北はアム川でウズベキスタンとの境となっている。人口は500万、面積は日本の1.3倍。首都はアシガバッド(アシュハバード)、言語はトルコ語系のトルクメン語で宗教はイスラーム教スンニ派。

近代以前のトルクメン人

 もともとイスラーム世界では10世紀頃からトルコ系をトゥルクマーンと総称していたが、11世紀頃から特にその中のオグズといわれる部族から、セルジューク人やオスマン人、アゼルバイジャン人が分かれて活動するようになり、トルクメン人もその一部かとも思われるがよく分かっていない。14~15世紀には黒羊朝(カラ=コユンル朝)がティムール朝やオスマン朝に服属せず、イラン西部に自立したが、1469年に東部アナトリアの白羊朝(アク=コユンル朝)に滅ぼされた。白羊朝は1508年にイランのサファヴィー朝に滅ぼされた。現在のカスピ海東部からイランのホラーサーン地方で半遊牧生活を行っている人々がトゥルクマーンを継承してトルクメン人と言われている。

トルクメン人の奴隷貿易

 トルクメン人が歴史上有名なのは、その奴隷貿易のためである。彼らは他民族、あるいは非イスラーム教徒を拉致してきて奴隷として売りさばくと言うことをしていた。その略奪行為はアラマンと言われ、悪事ではなく偉業であるとされた。奴隷とされたのは同じイスラーム教徒でもシーア派であるイラン人、それとカスピ海を渡った先にいたキリスト教徒のロシア人であった。これらの青い眼の奴隷たちは、ブハラヒヴァに運ばれ、その奴隷市場で売られていった。ヒヴァには奴隷市であった場所が残されている。ロシアの中央アジア征服は、この奴隷貿易を廃絶することを大義名分として行われたことであり、ブハラとヒヴァの奴隷市場が封鎖されたことは、ロシア帝国による中央アジア植民地化の数少ない功績だったといえるだろう。<山内昌之『ラディカル・ヒストリー』1991 中公新書 p.159>

ロシアによる征服

 ロシアによる中央アジア征服の最後が、トルクメン人であった。ロシア軍は1877年、トルクメニスタンのアシュハバード一帯のオアシス、アハル地方への侵攻を開始、それに対してトルクメン人のテケ部族が抵抗し、進軍を妨害した。おりからロシアはオスマン帝国との露土戦争を展開しており、イギリスはロシアのトルクメン進出に警告を発した。そのためロシア軍はいったん後退し、1879年春、改めて総攻撃を行った。しかし、8月28日のゲオク・テペの戦いで補給路を断たれ、テケ部族の勇敢な抵抗にあって撃退されてしまった。ロシア側は鉄道を建設して補給路を確保し、大砲など火器を増強してようやく1881年1月、ゲオク・テペ要塞が陥落、アシュハバードに入城した。
 この1881年のゲオク・テペ(ギョクテペ)の激戦でトルクメンはロシア軍に敗れ、ロシアに併合された。帝政ロシアによる中央アジアの軍事的征服はこれによって基本的に終わり、それ以後、ソ連に継承され、1991年に中央アジア諸国が独立するまで、約110年間にわたるロシア人の支配が続いた。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.200-205> トルクメニスタン国旗

ソ連時代と独立

 1924年、トルクメン=ソヴィエト社会主義共和国が成立し、ソヴィエト社会主義共和国連邦の一つの構成国となった。1991年のソ連の解体に伴い独立し、トルクメニスタン共和国となって独立国家共同体(CIS)に加盟した。初代大統領ニャゾクは終身大統領となったが、2006年に死去した。なお、95年には国連総会で永世中立国として認められれている。
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