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ロシアの中央アジア進出

19世紀後半、ロシアはトルキスタンなど中央アジアへの侵略を強め、領土を拡張した。それはイギリスのインド支配を脅かし、英露関係を悪化させた。

 ロシアはすでに19世紀なかばまでにカザフスタンのステップ地帯と、カフカス地方を征服し、南下の姿勢を強めていた。ロシアの南下政策の主眼は当初、バルカン半島から黒海方面におかれていたが、クリミア戦争(1853~56年)に敗れたため、眼を中央アジアのトルキスタン地方のの三ハン国に目を向けるようになった。

ロシアの進出の背景

 アレクサンドル2世のもとで始まったロシアの資本主義の形成にとって、トルキスタンは、ロシアに隣接する市場としても、豊かな資源と人口を持つ地域としても魅力があった。また、アメリカ南北戦争(1861~5年)のために原料の綿花の輸入が止まったため、トルキスタンの綿花はロシア木綿工業にとって不可欠なものとなった。さらにイギリスのアフガニスタン方面への進出に対抗する意味もあった。

ロシアの中央アジア征服

 1864年、ロシア軍はコーカンド=ハン国を攻撃、翌年タシケントを占領、1867年(明治維新の前年)にタシケントにトルキスタン総督府を置いた。さらに、ブハラ=ハン国ヒヴァ=ハン国にも侵攻して、この両国を保護国とした。一方でロシアは再びバルカン方面で南下政策を展開し、露土戦争(1877~78年)を戦って勝利を占めた。次いで1881年に遊牧民トルクメンの果敢な抵抗をギョクテペで粉砕し、ロシア領トルキスタンを完成させた。これによってアフガニスタンとイランはイギリスとロシアという二大勢力の緩衝地帯となった。<小松久男『内陸アジア』地域からの世界史6 1992 p.180-182>
 1881年に最後に残ったトルクメンがロシア軍に敗れ、以後中央アジアはロシアおよびソ連の支配下に置かれ、1991年まで110年間におよぶこととなる。 → 中央アジア5ヵ国
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ノートの参照
第13章3節 東アジアの激動