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タジク/タジキスタン共和国

タジク人は中央アジアのイラン系民族。ソ連邦を構成する社会主義自治国家であったが、1991年に独立しタジキスタン共和国となる。独立直後内戦が起こった。

タジク人はイラン系

 中央アジア5ヵ国(トルキスタン諸国)の一つで、タジク人の国家。現在はトルキスタンの一部とされるが、他のトルキスタン諸国と異なり、タジク人はトルコ系ではなく、イラン系の民族であり、自らはソグド人の後裔と言っている。言語もペルシア語系のタジク語を使用する。現在でもウズベキスタンのブハラやサマルカンドの住民の多くはタジク人であり、民衆レベルではウズベク語もタジク語も併用されている。人口は約680万、首都はドゥシャンベ。宗教はイスラーム教スンニ派。国土の東半分はパミール高原の山岳地帯にあたる。ウズベク人の3ハン国時代には、現在の国土の北半分はコーカンド=ハン国、南半分はブハラ=ハン国に支配されていた。そのため、「東ブハラ」とも言われることがある。

タジク人の民族的自覚

 古来、トルキスタンでは先住民のイラン系民族と、9世紀頃から定着したトルコ系のウズベク人などが混在し、同じイスラーム教徒ということで対立感情もなかった。ロシアの支配を受けた後、ロシア革命が起きるとトルキスタンの独立を求める運動が強まったが、それがソヴィエト政権によって抑えられると、「東ブハラ」を拠点にムスリム住民の中に反ソ武装闘争であるバスマチ運動が起こった。

タジク=ソヴィエト社会主義共和国

 赤軍によって反乱が鎮圧された後、1924年にソ連の「民族的境界画定」によって中央アジア5ヵ国が設立され、この地域はタジク人の居住区とされてタジク=ソヴィエト社会主義共和国となった。この境界区分は無理があったため、ウズベキスタン・タジキスタン・キルギスタンの国境は現在のように非常に入り組んだ形になってしまった。1927年にはタジク系住民の多いフジャンド地方はウズベキスタンからタジキスタンに帰属が変更されている。
 そしてタジキスタンでは現在もウズベキスタンなどの「汎トルコ主義」に対する警戒心が強い。また、タジキスタンには、タジク人の多いブハラを「未回収のタジキスタン」としてウズベキスタンからの回収を要求する動きも根強い。<小松久男『革命の中央アジア』1996 東大出版会 p.269 などによる>

独立と内戦、日本人の犠牲

 タジキスタンもソヴィエト社会主義共和国連邦を構成していたが、1991年のソ連の解体に伴い、タジキスタン共和国として独立し独立国家共同体(CIS)に加盟した。
 しかし、その直後の1992年、旧共産党勢力とイスラーム勢力との対立が内戦に発展、97年に和平が成立するまでに6万人が犠牲となった。94年には国連タジキスタン監視団(UNMOT)も派遣された。98年7月には日本の外務省から派遣された秋野豊政務官が反政府軍の手によって殺害されるという事件が起こっている。 
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