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露土戦争/ロシア=トルコ戦争(1877-78)

1877年~78年に起こった、ロシア帝国とオスマン帝国の戦争。ロシア=トルコ戦争ともいう。

ロシアのアレクサンドル2世は、南下政策の意図のもとにバルカン半島への勢力拡大をはかり、ギリシア正教徒の保護を口実にオスマン帝国に対し1877年に宣戦した。なお、広義のロシア=トルコ戦争は17世紀末のピョートル大帝から、18世紀のエカチェリーナ2世による数回にわたるオスマン帝国領侵略の戦争を含む場合がある。

戦争の口実

 1875年にオスマン帝国支配下のバルカン半島で、まずボスニア・ヘルツェゴヴィナのスラヴ系民族のキリスト教徒農民がムスリム地主による搾取に反発して農民反乱を起こした。同様の反乱がブルガリアでも起こると、同じスラヴ系のセルビア公国やモンテネグロ公国からキリスト教徒農民支援の声が起こった。クリミア戦争の敗北で南下政策をいったんは断念していたロシアは、パン=スラヴ主義を標榜して南下政策をとってバルカンに進出する好機が再び到来したと考え、1877年4月、アレクサンドル2世はスラヴ系民族キリスト教徒(ギリシア正教)の保護を口実にトルコに宣戦布告した。

開戦とロシアの勝利

 イギリスはロシアに対し、クリミア戦争でのパリ条約違反にあたると警告したが、ロシアは軍を進め、翌年1月アドリアノープルを占領し、イスタンブルに迫った。やむなくオスマン帝国は講和に踏み切り、1878年3月イスタンブル近郊で講和会議を開き、サン=ステファノ条約を締結した。

イギリスなどの干渉

 戦争に勝利したロシアが、1878年のサン=ステファノ条約で有利な条件を獲得したが、イギリス・オーストリアが反発し、ドイツのビルマルクの調停によりベルリン会議が開催され、その結果締結されたベルリン条約によって、ロシアおよびスラブ系民族の獲得範囲は大幅に後退することとなる。

オスマン帝国の状況

 オスマン帝国は露土戦争勃発の前年、タンジマートが推進される中、ミドハト憲法を制定したが、アブデュル=ハミト2世は戦争勃発を理由に憲法を停止し、再びスルタンの専制政治のもとに置かれることとなり、内政も停滞して「瀕死の病人」と言われるようになる。 → オスマン帝国の危機