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カダフィ大佐

1969年のリビア革命以来のリビアの指導者。独裁的な権力を握ったが、2011年の民衆蜂起によって殺害された。

 1969年のリビア革命の指導者。革命を成功させてから、リビアの最高実力者としてアラブ世界に重要な影響力を持っていた。一般に「カダフィ大佐」と言われるが、リビアではカザーフィまたはガザーフィと発音する。中部リビアの砂漠の遊牧民の子として生まれ、士官学校に入学、ナセルのエジプト革命の影響を受け、自由将校団を結成して革命運動を指導、1969年9月、リビア革命と言われる無血クーデターによって王制を倒して軍事政権をつくった。
 公式には大統領ではなく革命指導者という称号を用いているが、事実上の実力者・元首として権力を一身に集中している。その豊かな石油収入を背景とした強硬な外交政策はアメリカからも危険な独裁者と見なされ警戒されている。その著書『緑の書』3巻(1976~79)では、資本主義でも社会主義でもないという意味での第三の普遍理論を目ざしていた。
 イスラーム世界の指導者を持って任じており、1972年からのインドネシアのイスラーム教徒の分離独立を掲げたモロ民族解放戦線(MNLF)を支援、76年のトリポリ協定を仲介した。

カダフィ大佐の権力

 1969年、カダフィ大佐が11名の青年将校と共に軍事クーデターで王政を倒したのは、わずか27歳の時だった。リビアはイスラーム教スンニ派の国家だが、カダフィ自身はアラブ化したベルベル人の貧しい遊牧民カダファ族で、その支持母体は砂漠の少数民族であった。カダフィ大佐は権力掌握後、リビアの伝統的な社会に人民主権に基づく直接民主政である「ジャマヒリア」(アラビア語で民衆の意味、人民民主主義と訳される)を樹立し、国名も「大社会主義リビア=アラブ=ジャマヒリア」と名付けた。この体制では憲法や国会は無く、国家元首も存在しないので、カダフィも要職には就かず、革命の指導者としての「カダフィ大佐」で通した。
 カダフィ大佐の権力の追い風となったのは石油資源だった。1959年に発見されたリビアの油田はカダフィ体制のもと国家資源とされて急速に増産され、それにともなって工業化・都市化も急速に進んだ。カダフィ大佐は潤沢な石油収入を国民に分配することで絶対的な権力を維持することができたが、そのパーソナル・リーダーシップは「反西欧」の姿勢を強め、国内の自由な発言や外国文化との接触の自由を奪うことで成り立っていた。

カダフィ大佐の没落

 2011年、アラブの春の民主化運動がリビアに波及すると、カダフィ大佐は軍、警察を動員して弾圧を試みたが、北大西洋条約機構(NATO)がそ軍事介入、カダフィ大佐は10月20日に出身地のシルト郊外で拘束しされた後、殺害された。
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