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ダルフール紛争

2003年から、スーダン政府軍とアラブ系住民によるスーダン西部の非アラブ系住民への集団虐殺が始まり2008年頃まで続いた。最悪の人道危機ともいわれ深刻化した。2009年、国際刑事裁判所がスーダンのバシル大統領をジェノサイドの罪で逮捕状を出したが、出頭しないまま2019年のクーデタで独裁政権が倒れるまで不安定な状況が続いた。

ダルフール地方

スーダン ダルフール地方

スーダン共和国の西部のダルフール地方における、非アラブ系住民とアラブ系住民の対立から起こった民族紛争。スーダン政府がアラブ人組織による虐殺行為を黙認、あるいは実行しているとして国際的に非難された。
 ダルフール地方はサハラ砂漠に含まれ、現在のスーダンの西部にあたり、16世紀末にイスラーム国家ダルフール王国があった。19世紀にエジプト太守ムハンマド=アリーが侵出し、その支配下に入った。その間、征服者としてこの地に入ったアラブ系の遊牧民と、先住民である非アラブ系(アフリカ人)のオアシス農耕民が共存して生活していた。彼らはいずれもイスラーム教徒であるが、民族の違い、農耕民と遊牧民の違いから土地をめぐっての日常的な対立が続いていた。首都ハルツームのスーダン政府機構はアラブ系によって占められ、ダルフール地方の非アラブ系は政治的に差別され、さらに資源の不足から貧困が深刻となり、経済的に圧迫される状態となった。

スーダン内部の民族対立

 この対立は、1983~2004年のスーダン内戦の北部を中心としたイスラーム教徒と南部を中心とした非イスラーム教徒の対立とは異なり、同じイスラーム教徒の中のアラブ系と非アラブ系のエスニックグループの対立という民族紛争の構図である。アラブ系と言ってもアラビア人ではなくアラブ化したアフリカ人であり、いずれも褐色の肌色であるので外見上の見分けは困難である。
 2003年2月、ダルフールの非アラブ系住民の中から「スーダン解放軍」と名乗るグループが反政府活動に立ち上がった。非アラブ系住民約600万人はザガワ人、マサリート人、フール人などに分かれており、言語的にも異なっていたので、反政府活動は必ずしも一致していたわけではなく、いくつかのグループに分かれてていたようだ。スーダン政府はそのころ、分離を求めて立ち上がった南スーダンとの長いスーダン内戦を終わらせようとしていた。これ以上の分離を認めない政府はダルフールの反政府蜂起を一気に弾圧するため、以前からあるアラブ系遊牧民の非アラブ系農耕民への憎しみを利用して、その殲滅を図ろうとした。
 スーダン政府はジャンジャウィードと言われるアラブ系民兵に武器を供与し、非アラブ系村落を襲撃させて「民族浄化」さながらの虐殺や暴行をくり返えした。それに反発した武装グループが反撃し、首都ハルツームを攻撃するなど、紛争が拡大し再び内戦の様相となった。激しくなるジャンジャウィードの虐殺行為から逃れた非アラブ人の難民は隣国のチャドやリビアに逃れたが、その地も干魃に依って打撃を受けており、難民は悲惨な状況に置かれた。2003年以降、600万の人口のうちおよそ45万人が殺害されたり餓死したとされ、200万人が難民となった。
 被害が拡大したことによって国際社会にダルフールで起こっていることは「紛争」ではなく「ジェノサイド」(集団殺害)であると認識されるようになり、スーダン政府に対する非難と難民支援の動きが始まった。国連では安保理の中国・ロシアの反対が見越されたため動きは遅れたが、2005年には国際刑事裁判所(ICC)にスーダン政府とジャンジャウィード幹部ら51人が「人道に対する罪」で告発された。また、アフリカ連合(AU)は平和維持軍と警官7000人を派遣した。しかしAU軍にはスーダン軍との交戦は禁止されていたため効果は十分ではなかった。国連機関の人道支援も増加する難民を救済するのは困難になっていった。
 国際的にこの紛争が知られるようになって、その実態は「新たなスーダン内戦」、あるいは「ダルフール戦争」と言うべきことが明らかになったが、スーダン政府は内戦や戦争であることを否定しており、現在の日本でもその主張に沿って「ダルフール紛争」と言われてる。しかし「紛争」と片付けられない事態であったことは確かなようだ。

参考 「紛争」の実態

 日本の同時期のマスコミでダルフールで起こったことはほとんど伝えられることがなかった。ダルフール地方で、アラブ系遊牧民の民兵組織ジャンジャウィードによる虐殺行為がどのようにおこなわれたか、次のような報告がある。
(引用)殺戮は朝早く起こることが多い。何百人ものジャンジャウィード(「武装した騎手」という意味の民兵集団)が馬やラクダに乗って、村々を襲いに来る。顔中に巻いたターバンからは目だけがのぞいている。たいていの場合、まずスーダン空軍が戦闘機や対地攻撃用のヘリコプターで村を空爆し、村人を大量殺害する。爆撃をまぬがれた村人は逃げまどい、必死になって隠れる場所を探す。そこに政府軍兵士の支援を受けたジャンジャウィードが現れ、村の男性と少年を駆り集め、村から連れ出す。運がよければ射殺されるだけだが、ほとんどの場合まず拷問にかけられる。ときにはずらりと鎖につながれ、生きたまま焼き殺される。頭を切り落とされ、頭部を井戸に投げ込まれることもある。生き残った村人に、汚染された井戸水を飲ませるためだ。……
 かろうじて生き延びても、飢えに苦しみながら難民キャンプまでの長い旅を歩き続けなければならない。だがその難民キャンプも、故郷の村より安全というわけではない。多くのキャンプでは、食料も収容施設も医療施設も不足している。さらに女性や少女が薪を拾いにキャンプから出ると、ジャンジャウィードに襲撃され、レイプされる危険性がある。恐怖に陥れようと、待ち伏せているのだ。<ジェーン・スプリンガー/築地誠子訳『一冊でわかる虐殺ジェノサイド』2010 原書房 p.2-3>

国際刑事裁判所がスーダン大統領を告発

 2009年3月国際刑事裁判所(ICC)のモレノ=オカンポ主任検察官は、現職のスーダンのバシル大統領に対する逮捕状を発行した。嫌疑は、2003年にはじまるダルフール紛争で住民虐殺を容認し、指令したというもので、ジェノサイド条約違反の犯罪であると認定したのだ。特別の国際法廷ではなく、常設の国際刑事裁判所が現職の大統領の告発に踏み切ったのは初めてである。
 バシル大統領はICCの行為は内政干渉であると強く反発し、出頭の意志はないと表明した。スーダンはICCに加盟していない。アメリカはまだICC未加盟だが、オバマ政権は加盟に前向きで、ICCを支持した。しかし、中国は石油をスーダンから輸入するなど関係が強いことから、バシル政権を支持しており、国連もスーダンでのPKO活動には現政権の協力が必要と言うことでバシル告発には積極的にならなかった。「世界最悪の人道危機」といわれるダルフール紛争の解決につながることになるのか、世界の注目をあびた。
 結局、バシル大統領に対する国際刑事裁判所の逮捕状は宙に浮いたまま、バシル大統領はその地位に留まり、さかんに外交活動も行った。それが可能だったのは、国連安保理のメンバーであるロシアと中国が拒否権を行使することが考えられたため、国連そのものがその執行を認めなかったからであった。中国の習近平国家主席はバシル大統領を「友人」として中国に招いている。
 スーダンのバシル大統領は裁判に出頭することなく政権を維持していたが、その独裁的な姿勢が続いたため、2019年に軍事クーデタによって失脚した。

NewS スピルバーク、北京オリンピックの芸術監督を辞任

 2008年に開催される北京オリンピックの芸術監督に予定されていたアメリカの映画監督スティーヴン=スピルバークは、辞任の意向を明らかにした。理由は、中国政府がダルフール紛争での集団虐殺を進めているスーダン政府を支援していることをあげている。スピルバーグは『シンドラーのリスト』でナチス=ドイツのホロコーストをジェノサイドとしてきびしく告発しており、ダルフールでのジェノサイドが続いていることを憂慮し、中国がスーダン政府を支援していることは虐殺を容認していることとなり、許せないことだと捉えたという。スピルバークは中国の胡錦濤国家主席にスーダン政府を説得するよう要請する手紙を出したことを明らかにした。中国はスピルバークに辞意撤回を働きかけたが、結局、2008年2月、正式に辞任した。8月8日、中国最初の夏期オリンピック北京大会は開会式を迎え、何事もなかったかのように盛大に挙行された。 → ロイター通信 ホームページ 2008/2/13
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ジェーン・スプリンガー
石田勇治解説/築地誠子訳
『一冊でわかる虐殺ジェノサイド』 2010 原書房