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南スーダン共和国

2011年7月、スーダンから南部が激しい分離独立運動を経て成立。アフリカ54番目の独立国。しかしその後も石油資源を巡る部族間の対立を要因とする内戦状態が続き、安定していない。

南スーダン GoogleMap

2011年7月9日にアフリカ大陸で第54番目の独立国となった。首都はジュバ。アフリカの中央部、エジプトの南に広大な国土を有していたスーダン共和国の南部一帯で、1955年以来、半世紀間の分離独立運動が続いて、2005年に終結、北部イスラーム教徒と南部非イスラーム教徒間のスーダン内戦を克服した結果であった。内戦終結後5年を経て、スーダンのバシール大統領が住民投票を承認し、2011年1月、住民投票が実施され、独立賛成が圧倒的多数となり、7月9日に独立を宣言した。同年、193番目の国際連合加盟国となった。

スーダンとの国境紛争

 南スーダンは原油産出地域であり、その利権をめぐっての南北対立でもあった。北部のスーダンは結局南スーダンの独立を認めたが、その積み出しのためのパイプラインはすべてがスーダン領を通っているので、依然として利権を主張している。また、中間地域で南スーダンに組み込まれたアビエイ地区にはアラブ系住民も多く、独立に依然として反対しており住民間の対立も解けていない。最近の情報でもアビエイ地区の非アラブ系住民(黒人)の約10万人がアラブ系住民の暴力を避けて首都ジュバに避難しているという。<朝日新聞 2011年7月9日朝刊>

南スーダンの部族対立

 独立後の南スーダンでは、ディンカ族出身のキール大統領と、ヌエル族の出身のマシャル副大統領の体制で出発したが、二大部族であるディンカとヌエルがことごとく対立、2013年12月には大統領側がマシャル副大統領がクーデタを計画したとして解任、両派は武力衝突した。両者はその後何度かにわたり停戦に合意しているがすぐに破られるという事態が続いている。ディンカ族もヌエル族も、国民レベルでは同じ祖先から別れたという同胞意識があるが、大統領と副大統領の権力争いに巻き込まれているとも言える。

国連の平和維持活動

 国連は2011年の南スーダン独立以来、平和維持活動(PKO)を展開、「国際連合南スーダン派遣団(UNMISS)」を首都ジュバに駐屯させている。日本は当時の民主党政権菅直人首相が自衛隊海外派遣を決定し、2012年1月から5年間の時限で約200名が活動し、2017年5月に終了した(4~5名の要員派遣は延長されている)。
自衛隊日報隠蔽事件 南スーダンでの自衛隊の活動は法の制約により戦闘活動はおこなわず、道路や病院の建設など民生部門に限定されていたが、部族紛争のただ中で、しかも過酷な気象条件の中での困難が予測された。2013年には韓国から派遣された部隊が現地軍から攻撃を受けた際には、自衛隊が韓国軍に武器を提供、武器輸出三原則に違反するという問題が生じた。2016年には大統領派と副大統領派の戦闘が再開され、緊張が高まると、自衛隊には「駆けつけ警護」と「宿営地の共同防衛」が新たな任務に加えられ、戦闘に巻き込まれる恐れが高まった。安倍内閣が南スーダンの自衛隊の平和維持活動を終了させることになったが、それに先立ち国会で自衛隊の現地の活動での戦闘行為に巻き込まれることがあったかどうか、議論となった。政府の答弁は「武力衝突」はあったが「戦闘」は無かった、ということに終始した。更に追求された防衛省稲田朋美大臣は2017年2月、日報は破棄したので詳細は分からないと答弁した。ところが後日、自衛隊内部で日報があったことが判明した。もっともマスコミなどに公表された日報の大半は黒塗りになっており「戦闘」の文字は無かった。客観的情勢から「戦闘」があったことは事実であるが、「戦闘」といえないのは、それを禁止している国際平和協力法に違反したことになるからであった。この日報隠蔽問題は安倍内閣、稲田大臣の責任が追及され、国会に対し公文書を隠蔽したことは自衛隊の体質、また防衛大臣の文民統制能力の欠如が問われた。しかし自衛隊幹部が処分されたものの大臣は責任を問われることは無かった(後に稲田氏は内閣改造の一部として更迭された)。

苦悩する「世界で最も新しい国」

 南スーダンは、2021年7月9日、独立から10年目を迎えた。内戦をくり返し、日本の自衛隊も国連の平和維持活動に参加し、インフラ整備などで支援に当たった。しかしこの「世界で最も新しい国家」は、人口の3分の1にあたる約390万人もの難民や避難民の帰還の目途が立っておらず、国の行き先は不透明なままだ。
 サルバ=キール大統領は同日朝、首都ジュバで演説「失われた10年でのこの国の発展の道へと戻すためにみなで力を合わせよう」と呼びかけ、再び内戦に戻ることがないことを国民に約束した。大統領の出身である最大民族ディンカと2番目に多い民族ヌエルの対立は、18年に和平合意が成立し、20年に暫定政権が発足したが、国軍の統合問題など未解決であり、多くの避難民がコロナ禍の本で生活環境の悪化、食糧不足に苦しんでいる。世界食糧計画(WFP)や国連人道問題調整事務所(OCHA)による支援が行われているが、事態は好転の兆しを見せていない。2021/7/18記 <朝日新聞 2021/7/10 記事などによる>

国境未画定地域

 世界地図でスーダンと南スーダンの国境線をたどると、一部分が膨らんでいて点線でかこまれている(上のGoogle Map参照)。これは2011年に南スーダンがスーダンから分離独立したとき、南北の対立が最も激しかったところで、国際社会の仲介で帰属未定地とされ、そのまま残ったところである。この地域はアビエイ地区といい、油田地帯である。住民は地区北部はアラブ系の遊牧民ミッセリア、南部はアフリカ系で農耕と牧畜で暮らすディンカが優勢。この両者はそれぞれを南北スーダンが背後で支援し、長く対立している。ここに無理に国境線を引くと南北の対立がさらに激しくなる恐れが強く、南スーダン独立後も帰属国未定のまま残され、国連PKOの「国連アビエイ暫定治安部隊(UNISFA)」が駐留を続けている。
 2022年2月、アビエイ地区で武力衝突が発生、地区南部のアゴクで医療活動を続けていた「国境なき医師団(MSF)」の病院も活動を停止した。「ゴーストタウンになってしまって患者が来ないから」という理由だった。緊急対応コーディネーターとして現地入りしたMSFの萩原健さん(55)は空路アゴクに入り、隣接する南スーダン北部一帯を回り、3万~4万の避難民の状況を調べ、いったん帰国、7月11日、東京都内で時事通信記者にそのときの状況を次のように語った。
(引用)乾期の猛暑の中、避難民らは木陰を求め林に集まります。食料はありません。木の実を食べていました。トイレも「そこら辺でやっている状態」で、雨期になれば衛生状態は危機的です。医療支援のはずが、まず食料を確保し、トイレをつくることに追われました。4ヶ月かけて、南北双方の避難民への新たな医療支援の拠点をそれぞれ軌道に乗せました。しかし、アゴク一帯は襲撃を恐れ住民が戻りません。衝突で「誰も何も得ていない。真ん中に無人地帯ができただけではないか」と萩原さんは憤ります。衝突したのはディンカという同じ民族同士で、対立双方が土地問題など長年の確執を抱えているものの、なぜ今爆発したのか背景には謎も多い。<『しんぶん赤旗』2022年7月14日、(時事)>
 それでも10年前には医療関係者はケニアやウガンダから呼んできたが、今はアゴクの病院でも南スーダン人の医師が診察し、病院職員も450人が南スーダン人だった。独立から10年で間違いなく人材が育っていることは断言できる、と萩原さんは語っている。
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