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スーダン(1) 植民地化に対する抵抗

スーダンは本来は黒人の住むアフリカ全域を意味した。後にナイル上流、エジプトの南に接する地域の国名として用いられるようになった。19世紀後半にエジプトに進出したイギリスが、1880年代のマフディーの反乱を鎮圧し、イギリス領に組み込んだ。

 スーダンとは「黒人たちの国」の意味で、エジプトなど地中海岸を除いた黒人の住むアフリカ全般を示す地名であった。エジプトの南に位置するナイル川上流地域で狭い意味での現在のスーダン一帯には、古くはヌビア人のクシュ王国メロエ王国などがあり、エチオピアとも関係が深かったが、14世紀までにはイスラム化した。

マフディーの反乱

 ナイル上流域のスーダンは、19世紀にはエジプトが領有することとなったが、1869年以降はエジプトを経てイギリスがスーダンにも進出するようになった。スーダンを支配したエジプトは、水車税や通行税など新たな税を強制し、民衆の中に反発が強まった。そのような中、1881年にスーフィー教団の中から現れたムハンマド=アフマドは、自らマフディー(救世主の意味)であると称してマフディーの反乱を開始した。同じ年、エジプトではウラービーの反乱が始まっていたため、エジプト軍はマフディー反乱を鎮圧することができず、スーダンは マフディー教団による「マフディー国家」が成立した。イギリスはウラービーの反乱を鎮圧した後、ようやく本格的な攻撃を行ったが、イギリス軍も大敗し、スーダンの中心都市ハルトゥームはマフディー軍に包囲されて孤立してしまった。

ゴードン将軍の戦死

 1884年、中国の太平天国鎮定で名を知られたゴードン将軍がハルトゥーム救援に派遣されたが、彼も又翌年1月敗死した。翌85年、ムハンマド=アフマドは急死し、教団は後継者カリファ=アブドゥラヒが引き継いでなおも戦いを続けた。

ファショダ事件

 スーダンのマフディー国家はその後も約10年にわたって存続したが、1896年にイギリスはキッチナー指揮の下に最新の兵器と数万の軍隊を派遣し、1897年9月、マフディー国家の都オムドゥルマンを占領した。イギリスがスーダン制圧を急いだのは、そのころフランスがアフリカ横断政策をとり、サハラからエチオピア方面をめざし、スーダンに進出していたためであった。アフリカ縦断政策をとるイギリスは、スーダンを抑えなければならなくなり、スーダンはにわかに帝国主義列強の衝突する場所となった。両軍は1898年、スーダンのファショダで遭遇したのがファショダ事件であったが、両国は全面衝突を回避し、アフリカ分割の協議に入ることとなる。
 19世紀末、ヨーロッパの帝国主義列強によるアフリカ分割の後、現在ではイギリスが支配した地域をアングロ=エジプティアン=スーダン(現在のスーダン共和国)、フランスの支配した地域をフランス領スーダン(現在のマリ共和国)というようになった。

イギリス領スーダン

 スーダンではイギリス軍がマフディー反乱を鎮圧した1899年から形の上ではエジプトとイギリスの共同統治とされたが、事実上はイギリスの植民地支配を受けることとなった。

スーダン(2) スーダンの独立

1956年、イギリスからの独立を宣言。しかし、北部のイスラーム教徒と南部のキリスト教徒の対立が根深く、内戦が続く。2011年、南スーダンが分離独立したが、完全な和平には至っていない。

スーダンの独立

 エジプト革命によって1953年に生まれたエジプト共和国がスーダンの併合を要求すると、イギリスはそれを拒否し、自治権を与えることにした。1955年末、スーダンの議会はイギリスからの独立を決議し、翌1956年1月1日、スーダン共和国は独立した。アフリカ諸国が一斉に独立する1960年のアフリカの年の前のことであった。
 スーダンは南部スーダンが分離独立する前は、アフリカ諸国最大の面積(約250万平方km、日本の7倍)を有する国家であった。人口は約3800万。そのうち40%はアラブ系でイスラーム教徒だが、約30%のアフリカ系(黒人でキリスト教徒や伝統宗教を守る非イスラーム)が南部に集中していた。首都はハルツーム。エジプトの南部、ナイル川上流に位置し、その東側はエチオピア、西側はチャド。

二度にわたる内戦

 独立以前からは北部のイスラーム教徒と南部のキリスト教徒及びアフリカ土俗的信仰地域との間に紛争が絶えず、政情不安定でクーデターが相次いだ。その間、スーダン内戦といわれる激しい紛争が、1955~72年の第一次と1983~2004年の第2次の二度にわたって展開された。
 1989年からはイスラーム原理主義が台頭し、その支持を受けたバシル軍事政権が成立、それに対して南部の非イスラーム勢力が分離独立を主張して始まったのが第2次内戦である。1993年、アメリカは、スーダンに対して、テロ支援国家に指定し、警戒を強めた。国連やアフリカ連合(AU)の働きかけもあってようやく2002年に停戦に合意した。

ダルフール紛争

 2003年からは西部のダルフール地方で、同じイスラーム教徒でありながら、アラブ人の現政権による非アラブ人への暴力行為などから民族紛争であるダルフール紛争が起こり、大規模な民族浄化と称する残虐行為が問題となっている。2009年には国際刑事裁判所(ICC)がバシル大統領を虐殺など非人道的行為を指揮したとして逮捕命令を出しているが、大統領は従っていない。(2009年6月現在)

南部スーダンの分離独立

 2002年のケニアで開始された停戦交渉の結果、2005年に包括的な和平が成立し、南部スーダンは6年間の自治期間を経た上で帰属を決定する住民投票を実施することとなった。2011年1月に住民投票が実施された結果、98.8%が独立賛成に投票し、独立することが決まった。北部スーダンのバシル大統領も南部の独立を容認する声明を発し、同年7月9日に「南スーダン共和国」として正式に独立した。アフリカでは54番目の独立国である。ただし、また境界線付近のアビエイ地区では紛争が続いている。また石油資源は南部に集中しており、北部の不満が潜在的に続いている。