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スリーマイル島原発事故

1979年、アメリカ、ペンシルヴェニア州で起こった原子力発電所の事故。原発の危険性を最初に露呈した事故となった。

 1979年3月28日、アメリカ合衆国のペンシルヴェニア州スリーマイル島原子力発電所で、放射能が漏れ、周辺住民が避難する事態となった。スリーマイル島 Three Myle Island とは、チェサピーク湾に注ぐサスケハナ川の河口から160kmほどさかのぼった内陸にある中洲で、周囲がおよそ3マイルなのでその名がある。アメリカは電力のエネルギー源として、石炭や石油に較べて原子力が経済的に低コストであることを理由に原子力発電(原子力の平和利用)を国策として進め、その実用化はソ連にやや遅れたが、1954年から本格的に建設を開始、その増設を続けていた。しかし、この重大事故を受け、方針を転換、原発新設を事実上停止した。さらに1986年のソ連(当時)のチェルノブイリ原発事故、2011年の福島第一原発の事故を受けて廃炉を進めている。

重なった人為的ミス

 事故を起こした原子力発電所はバブコック社というマイナーな会社が1978年12月末に操業を開始した加圧水型原子炉だった。バブコック社の経営は苦しく、2号機は納期に合わせるためにかなり無理な工事をしていたと言われる。事故は、2次冷却水循環装置の浄化器のフィルターを洗浄する装置が動かなくなったことから始まった。作業員が手でゴミを除去したが、このとき浄化器をコントロールする安全装置に水が入ってしまった。3月28日午前4時、コントロールルームに警報が鳴り響き、2次冷却水がストップしたことを知らせた。冷却水の循環がストップしたためダービンが止まり、制御棒が降りて原子炉が停止、さらに1次冷却水の温度が急激に上昇、原子炉内の温度も超高温となり、炉心融解の危険が迫った。
 2次冷却水がなんらかの原因で止まった場合に備えて、バイパスが設けられており、メインパイプの送水がストップするとすぐにバイパスから送水されるしくみになっていたが、なんとこのとき、バイパスのバルブが閉められたままだった。だれもが開になっているものと思い込み、緊急事態を知らせるブザーが鳴り響く中、慌てる作業員の誰もバイパスのバルブが閉になっていることに気付かなかった。もう一つの安全装置である1次冷却水の温度が急上昇したときに蒸気を放出する「逃がし弁」があった。圧力が下がれば自動的に閉じることになっていたが、このときこの弁そのものが故障して開きっぱなしになっていた。さらに高熱のため1次冷却水の水位を示すメーターが吹っ飛び、「満水」のまま止まってしまった。これを見た作業員は、これ以上冷却水を供給してはまずいと思い、緊急炉心冷却水注入装置を止めてしまう。原子炉内では1次冷却水の流出によって燃料棒が露出、表面温度は2000度に達し、重さ133トンの炉心の52%がメルトダウンし、原子炉棟に充満した放射能がとうとう建物のわずかな隙間から大気中に発散していった。
 事故発生から2時間18分後に応援に来た運転員がようやく水位計の誤作動に気付き、1次冷却水の漏れを止めた。8時45分、アメリカ原子力規制委員会(NRC)に事故が通告され、9時台にはニュースが流れると騒然とした状況となり、憶測や誇張された情報が乱れ飛び、不安が広がった。2日後の午後0時30分、NRCの要請を受け、ペンシルヴェニア州知事は原発から5マイル(8km)以内の妊婦と子供の避難勧告を出したが、パニックに陥った住民はみな避難し、人っ子一人いないゴーストタウンとなった。炉心の溶解が途中でストップし、炉の隔壁の破壊が避けられたため、原爆の爆発のような事態は避けられたが、人々を大きな恐怖におとしいれたこの日は「暗黒の金曜日」として語り継がれている。<浜林正夫・野口宏『ドキュメント戦後世界史』2002 地歴社 p.262-265>
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浜林正夫・野口宏
『ドキュメント戦後世界史』
2002 地歴社