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ペンシルヴェニア

アメリカ東部の一州で、ペンが国王から特許状を得て建設した領主植民地が起源。

 13植民地のひとつ。1681年、イギリス貴族のウィリアム=ペンは、父の負債1万6千ポンドの代償として、国王チャールズ2世から特許状を得、北米大陸に植民地を開いた。これがペンシルヴェニア(ペンの森の意味)で、ペン家を領主とする領主植民地であり、入植者はペン家に地代を支払わなければならなかった。このような封建的な制度の残る植民地であったが、ウィリアム=ペン自身は熱心なクェーカー教徒であって、国家による宗教の強制を嫌い、住民への信仰の自由と経済活動の自由を認め、みずから先頭に立って開拓にあたった。そのため、クェーカー教徒の他に、ドイツやオランダ、スコットランドなどからプロテスタント系の移民が多数、入植した。また、ペンはインディアンに対しても同等の人間として接し、暴力でその土地を奪うことはなかった。彼が建設した州都がフィラデルフィアであり、それは「友愛」と言う意味のギリシア語にちなんでいる。

クウェーカー教徒

 クウェーカー(クェーカー) Quakers というのは17世紀のなかばごろイギリスで起こったプロテスタントの一派で、神を知り、神を信じるには教会も牧師も儀式も入らないと主張した。特に、激しい熱情をもって祈り、神の言葉を直接聞いて感動に身を震わせるという信仰の形態から、身を震わせる人びとという意味でクウェーカーと呼ばれた。ピューリタン革命後のイギリスで、1660年にチャールズ2世が即位して王政復古の時期となると、イギリス国教会(アングリカン=チャーチ)が権力を回復し、ピューリタン各派の信仰は再び認められなくなったが、特にクウェーカーは厳しく弾圧された。教会制度と儀式を重んじる国教会が、それらを否定するクウェーカーを最も嫌ったからであると同時に、クウェーカーが社会の最下層民に拡がっていたからであった。1662年にはクウェーカー法が発布され、5人以上のクウェーカーが集会すれば処罰されることになった。彼らの集会は軍隊によって追い散らされ、ある時は男も女も上衣をはがれ、町のなかで裸の背中を打たれた。ロンドンだけでも1年に2千人以上のクウェーカーが投獄された。 → イギリスの宗教各派
 ウィリアム=ペン(1644~1718)は有名な海軍提督の息子で名門の子弟であったが、23歳の時にクウェーカーの信仰に入り、1668年に国教会を批判するパンフレットを書いて捕らえられ、ロンドン塔に幽閉された。1681年、1万ポンドに及ぶ父の再建と引き替えにチャールズ2世からアメリカ大陸に領主植民地をつくる特許状を得て、そこにクウェーカーの新天地ペンシルヴェニアを建設したのだった。1682年11月、総督として新天地に到着すると、デラウェア川のほとりでインディアンの首長と会見し、友愛をもって共存すること、武器を取って争わないという条約を結び、事実ペンシルヴェニアではその後もクウェーカーの血は一滴も流されなかった。
 なお、クウェーカーは別名フレンズ派とも言い、その後も徹底した平和主義を貫いた。たとえ徴兵されても絶対に武器を取らないとう姿勢は、多くの苦難を浴びることとなったが、1947年にはノーベル平和賞を受賞している。<中屋健一編『世界の歴史』11 1961 中央公論社旧版 p.25-29>

参考 ヴォルテールのクェーカー評

 クェーカー教徒とは、17世紀中頃、イギリスでジョージ=フォックスによって興されたキリスト教の一派。人は心に神の直接の啓示を受けることができると説いた。クェーカーとは英語で「体をふるわせる者」という意味で、神の啓示を受けるとき、彼らはしばしばこの状態になった。ヴォルテールは『哲学書簡』(1734)の冒頭の数章と、『寛容論』(1763)でこの一派を好意的に紹介している。(『カラス事件』訳註による)
(引用)人びとが愚弄して「クェーカー」と呼んでいる未開人、その風習はいかにもばかげているかもしれないが、徳義心に厚く、効果はあがらなかったにしても人びとに平和を説いた野暮な未開人、彼らについてわれわれは何と言ったらよいであろう。ペンシルヴェニアで、彼らの数は十万に達している。自分らのために建設した楽土で、彼らは仲違いも論争も知らずにいる。そして人類が兄弟である事実を絶えず彼らに思い起こさせる。フィラデルフィアという彼らの都市の名称(ギリシア語で「兄弟愛」の意)、この一事だけでも、まだ寛容の何たるかを解さぬ民族にとって誡めとなり、また面目ないという気持ちを起こさせるのである。<ヴォルテール/中川信訳「寛容論」(『カラス事件』富山房百科文庫 1978所収) p.106>
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10章2節 ア.北アメリカ植民地の形成