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シュメール法典

前22世紀末、シュメール人のウル第3王朝時代に編纂された世界最古の法典。バビロニアのハンムラビ法典に先行する。

シュメール人の法典

 前22世紀末~前21世紀にメソポタミアを支配したシュメール人ウル第3王朝ウル=ナンム王の時、最初の法典の整備が行われた。このウル=ナンム法典と言われるもの世界最古の法典編纂である。(なおこの法典を次の王シュルギの時とする異説もある。)シュメール人の手による法典整備は、その後、イシン王朝(ウル西北のイシンを中心としたシュメール人の王朝)のリピト=イシュタル法典(前20世紀)などを経て、古バビロニア王国ハンムラビ法典につながっていく。ハンムラビ法典はこれらのシュメール法典を集大成したものであり、世界最古の法典ではない。法典の整備ということが、領域国家の出現と結びついていることに留意しておこう。

正義の維持者としての王

 メソポタミア文明のなかで国家の形成が進み、国王が国家権力を握る王権が成立した。その王権のあり方(正統性)は、シュメール都市国家段階では、都市国家の防衛と豊饒と平安の確保という責務を果たすことにあった。そのためには神々を祀り、神殿を建設し、灌漑施設や運河を造営することが王権に不可欠であった。シュメール人のウル第3王朝の時代になると、バビロニア全土とその周辺地域を支配する統一国家の段階となる。この段階での「国家の防衛と豊饒・平安の確保に加えて、新たに“正義”の維持」が王の責務に加わった。国王は神格化され、神の機能の一部を担うこととなった。そしてシュメールの王たちは、王の責務を明らかにするために、法典を制定した。この「正義」について、中田一郎氏は『メソポタミア史入門』で次のように説明している。
(引用)ここでいう正義とは社会正義のことです。孤児や寡婦に代表される社会的に弱い立場にある人たちを、強い立場にある人たちの搾取や抑圧から守り、弱い立場にある人たちの正義が蹂躙されたときは、その正義を回復することが、王の責務となったのです。<中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書 p.107>

シュメール法の系譜

 メソポタミアにおける、ハンムラビ法典に至る方の整備の過程は同書によると次のようになる。
ウルナンム法典 メソポタミア最古の法典で、ウル第3王朝初代の王ウルナンム(在位前2112~前2095)(ウル=ナンムとも表記)が作らせた法典で、シュメール語で書かれている。現在のこっているのは断片的な粘土板だけであるが、その前書きに、「わたしは、憎しみ、暴虐、そして正義を求める叫び声(の原因)を取り除いた。私は国王として正義を確立した」と述べている。
リピト=イシュタル法典  イシン王朝第5代の王リピト=イシュタル(在位前1934~前1924)が作らせた法典で、シュメール語で書かれた粘土板写本が数点残っている。この前書きでも「そのとき、アヌム神とエンリル神は、国土に正義を確立し、正義を求める叫び声(の原因)をなくし、憎しみと暴虐を取り除き、シュメールとアッカドの地に福祉をもたらすために、……リピト=イシュタルを召命した」と書かれている。
エシュヌンナ法典  アッカド語で書かれたエシュヌンナの王が定めた法典。この王の治世年は不明だが、ハンムラビ王の始めと一部重なる可能性がある。粘土板写本3本だけで法典の意図はまだわかっていない。
ハンムラビ法典  ハンムラビ法典は4番目に古い法典で、古バビロニア王国(バビロン第1王朝)のハンムラビ王の時に作られ、アッカド語で書かれている。その前書きでハンムラビ王は、みずからの責務を「国土に正義を顕すために、悪しきもの邪なるもの滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために」神々から召し出されたと述べ、後書きでは「強者が弱者を損なうことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために……わたしはわたしの貴重な言葉を私の碑に書き記し……」と述べ、ハンムラビ法典の作成意図が社会正義の確立と維持にあったことを明言している。<中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書 p.108~111> → ハンムラビ法典