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ウル第3王朝

前2100年頃、アッカドの衰退に乗じてシュメール人がメソポタミア支配を再建した領域国家。ウルを都としてウル=ナンムが建国、法典を整備した。次のシュルギ王はシリア方面まで勢力を伸ばしたが、前2004年、東方から侵入したエラム人によって滅ぼされた。

シュメール人の復活

 シュメール人ウルを中心に独立を回復し、メソポタミアを支配した王朝(前2112~2004年)。ウルに都をおいた三番目の王朝という意味でウル第3王朝と言う。アッカド王朝の衰退に乗じウルのシュメール人軍事司令官ウル=ナンムが建国した。

世界最初の法典を制定

 ウル第三王朝は、約100年しか存続しなかったが、初代のウル=ナンム王は世界で最初の法典の整備した。これがシュメール法典(「ウル=ナンム法典」であり、後のハンムラビ法典に引き継がれることとなる。ウル第三王朝では、この法に基づく行政や裁判が行われていたらしく、膨大な行政、財政、租税、裁判記録などを記した粘土板が出土している。このようなウル第3王朝には「最初の官僚制国家」という位置づけがされている。

シュルギ王の統治

 ウル=ナンム王に続いて即位したシュルギ王は48年にわたって在位(前2094~2047年)し、多くの王碑文を残しており、さらに多くの楔形文字史料が、古バビロニア時代の写本(学校での文章の手本として作られた)を通じて、その統治の詳細を知ることが出来る。シュルギ王は統治の前半では神殿の整備などの宗教政策を進めて自己の神格化を進め、支配が固まった後に諸改革を実行して軍事力を高め、支配領域をティグリス川東岸や、シリア、地中海東岸にまで拡げた。
街道の整備 シュルギ王は、治世7年目にウルからニップールまでの街道を整備した。ニップールはシュメール人の最高神エンリル神をまつる神殿があった。いわば国道一号線ともいえる道路であり、約10kmごとに宿駅が置かれ、キリと呼ばれる休憩所を設置した。このような交通路の整備はアッシリア帝国新バビロニア王国/カルデア王国、さらにはイスラーム世界のキャラバンサライなどの原型になるものだった。

Episode 成績自慢のシュルギ王

(引用)『シュルギ王讃歌B』で、シュルギ王は成績が良かったことを自慢している。
 私の少年の頃から、私は学校に属し、
 シュメル語とアッカド語の粘土板で私は書記術を学んだ。
 少年の誰一人、私のように粘土板に(上手に)書くことはできなかった。
 シュルギは学校に通ったことを誇り、算術もでき、成績優秀だったことを自慢している。鼻持ちならないことに「五つの言語で答えた」とも書かれていることから、語学の才能があったようだ。(中略)
 シュメールの学校は書記つまり役人を養成する訓練機関だった。王は役人の卵たちと机をならべ、役人としての七期、技術を身につけた。だからこそ役人のなんたるかがわかり、統一国家の中央集権体制を支える役人たちの上に立ち続けることができたのである。<小林登志子『5000年前の日常』2007 新潮選書 p.212>

ウル第3王朝の滅亡

 王の統治の晩年は、軍事遠征がくり返された。北方のフルリ人に対する遠征は三度にわたった。それによって領土は拡張されたが、前2047年に死去した後の後継者は無能であったらしく、西方からのアムル人の侵攻と、内部の将軍の離反などから次第に弱体化した。その結果、ウル第3王朝は5代約100年続いた後、前2004年頃、東方(イラン方面)から侵入したエラム人によって滅ぼされた。

ウル第3王朝滅亡後のメソポタミア

 約100年続いたウル第3王朝が滅亡した前2004年から、バビロン第1王朝のハンムラビ王がメソポタミアを統一した前1759年までの約240年間は世界史教科書上では空白の時代であるが、実際には複雑な王国間の抗争が続いた。特徴は新たにアムル人が主役級の民族として活躍をはじめ、特に有力だったイシン王国とラルサ王国の名から「イシン・ラルサ時代」と言うこともある。またこの時代と次のバビロン第1王朝が滅亡する前1595年までを「古バビロニア時代」と言うこともある(主として文化史的な時代区分として)。
 例えば2024年版の山川出版社の『詳説世界史・世界史探求』でも、アッカドの滅亡によって統一国家が崩壊した前22世紀から、「その後、前19世紀初めにセム語系のアムル人がバビロン第1王朝をおこし、・・・」と前21、20世紀は説明されていない。もっとも旧版では「その後」ではなく「まもなく」となっていたから、ずいぶん長い「まもなく」だった。ということで、授業でもこのあたりにこだわっていると先に進まなくなるということで、ほとんどカットされることになる。