メソポタミア
ティグリス・ユーフラテス両河の間の地方。人類の古代文明の一つ、メソポタミア文明が興った。下流域をバビロニア、上流域をアッシリアにわける。シュメール人の都市国家に始まり、バビロン第一王朝が初めて統一した。その後幾つかの古代王朝が興亡、7世紀にイスラーム化した。
文明の形成地
メソポタミアは、「川のあいだの地方」(メソ=間、ポタモス=川)を意味し、地域名としてはティグリス川・ユーフラテス川の流域全体を言う。歴史上は、一般にイラクの首都バグダードよりも北部をアッシリア、南部をバビロニアに分ける。バビロニアはさらに北をアッカド、南をシュメールに分ける。特に南部(ティグリス・ユーフラテス両河の下流)は肥沃な三日月地帯の一部となっており、メソポタミア文明が形成された。メソポタミアは、ギリシアから見て東方に当たることから、広くオリエントといわれており、その場合はエジプト文明とともにその構成要素となる。また地理的には西アジアに含まれ、北のアナトリア高原・イラン高原の高地と、南のアラビア半島の台地上の乾燥地帯との中間にある低地であり、チグリス・ユーフラレテス両川の洪積平野が広がっている。
バビロン
メソポタミア南部のバビロニアには、アッカド人、シュメール人の都市国家が生まれ、それらを統合してアムル人がバビロン第1王朝が現れた。バビロンを都とし、ハンムラビ王の時、前18世紀にはメソポタミアを初めて統一した。バビロン第一王朝が前1595年ごろヒッタイトによって滅ぼされた後、メソポタミアには南部にカッシート(バビロンを支配)とミタンニ(両川中流)があり、メソポタミア北部にはアッシリアがあった。アッシリアははじめはミタンニに服属していたが、ヒッタイトから戦車や騎兵の使用を学び、軍事国家として台頭し、前9世紀にはメソポタミアを含むオリエント全域を初めて統一しアッシリア帝国となった。セレウキア
アッシリア帝国はすぐに滅ぶと、メソポタミアは新バビロニア王国に統治されバビロンはその都として復興した。次にメソポタミアはイラン高原を拠点としたアケメネス朝ペルシア帝国に支配されたが、バビロンの繁栄は続いた。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス帝国が短期間に分解した後は、セレウコス朝シリアがメソポタミアのティグリス川河畔のセレウキアを都として成立した。クテシフォン
セレウコス朝から自立したパルティアは、地中海世界を征服してオリエント世界に進出してきたローマと抗争し、メソポタミアはその戦場となった。パルティアは前2世紀に都をティグリス川河畔、現在のバグダード近くにクテシフォンを築いた。次のササン朝ペルシアもそれを引き継いだ。そのためメソポタミア地方の政治・文化の中心はクテシフォンに移り、バビロンは次第に衰え、やがて廃墟となってしまった。また、メソポタミアは、ササン朝とビザンツ帝国の長い抗争の地となり、次第にかつての文明の繁栄は失われていった。イスラーム圏となる
7世紀にアラビア半島に勃興したイスラーム教勢力は、651年にササン朝を滅ぼし、西アジア全域のイスラーム化が始まった。アッバース朝のカリフマンスールはティグリス川西岸に、762年に新都を造営し、「平安の都」と名付けたのが現在のバグダードの始まりである。バグダードはその後も長くイスラームの政治・文化の中心となって繁栄したが、13世紀にはモンゴルの侵入を受けるなど多くの苦難もあった。オスマン帝国~イラク共和国
長くオスマン帝国の支配を受けた後、近代ではアラブ系住民の独立運動が起きるが、シリア方面からはフランス、インド・イラン方面からはイギリスが進出し、第一次世界大戦から第二次世界大戦まで委任統治領として分割支配された。現在は大部分がイラク共和国に含まれるが、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争などうち続く戦争によってメソポタミア文明の貴重な遺跡が失われる危機に瀕している。 → 中東