ミトラ教
西アジアにあった原始的な密儀宗教。太陽神ミトラを崇拝する信仰で、ゾロアスター教以前のイラン人に始まり、前1世紀にはローマにも入り一時盛んとなって大きな影響を与えた。ローマではキリスト教の広がりとともに衰えた。
もとはアーリヤ人の太陽神(光明神)であるミトラ神(ミスラ神とも表記)をまつる密儀宗教であり、西アジアではイラン高原でゾロアスター教が成立する前からイラン人に信仰されており、アケメネス朝ペルシア帝国の時代に小アジアにまで広がっていた。前1世紀にローマのポンペイウスが小アジアを征服しことを機にローマに伝えられたという。共和政ローマから帝政ローマ時代の価値の混乱した時代、キリスト教が下層民の宗教にとどまっていたのに対し、ローマの国家神として祭られたこともある。
密議の内容は、牡牛を屠り、その脂肪と髄から作られた飲料を飲むと不死となるという類のもので、ローマ帝国でキリスト教が公認される前の3世紀には、ミトラ教(ミトラス教)はローマの神々と融合し、帝国各地に多くの神殿が造られた。しかし、女性の入信を認めないなど、普遍的な信仰となる条件が無く、キリスト教の台頭とともに衰えた。ただし、その儀式などはキリスト教にも影響を与えておいる。<本村凌二『多神教と一神教-古代地中海世界の宗教ドラマ-』2005 岩波新書 p.151,193>
ササン朝より前のアルサケス朝パルティアには全盛期であった前2世紀ミトラダテス1世などの王名は、ミトラ神に認められた者、という意味があったという。
密議の内容は、牡牛を屠り、その脂肪と髄から作られた飲料を飲むと不死となるという類のもので、ローマ帝国でキリスト教が公認される前の3世紀には、ミトラ教(ミトラス教)はローマの神々と融合し、帝国各地に多くの神殿が造られた。しかし、女性の入信を認めないなど、普遍的な信仰となる条件が無く、キリスト教の台頭とともに衰えた。ただし、その儀式などはキリスト教にも影響を与えておいる。<本村凌二『多神教と一神教-古代地中海世界の宗教ドラマ-』2005 岩波新書 p.151,193>
Episode クリスマスは異教の祝祭日だった
キリスト教ではイエスの誕生日を12月25日とし降誕節(クリスマス)を祝っている(その前日の24日夜がイブ=前夜祭)。ところがローマ時代のアンティオキアなどではクリスマスは1月6日が降誕祭とされていた。12月25日はもとは東方のミトラ教の祝日であった。この日は冬至にあたり太陽が成長を開始する日とみられ太陽神ミトラの誕生の日とされていたのだ。この太陽神ミトラ信仰がローマに入り、帝国の守護神とされ、ローマで盛んに祝われるようになった。やがてミトラ教に代わり、キリスト教が公認されると、教会はこの日をイエスの誕生日として祝うことによってキリスト教の勝利を表明した。この日付には敗れたミトラ教が生き残っていたのである。<高橋秀『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学芸文庫 p.343>イランのミトラ神
古代イランのアーリヤ人は、ササン朝ペルシアでゾロアスター教が国教とされるまで、さまざまな神々を祀っていた。その一つがミトラ神で、友情・契約などをつかさどる太陽神であり、非常に人気が高かったらしい。特に、宇宙の秩序を維持する機能は、地上における神官階級の役割を投影したものと考えられている。しかし、イラン高原でゾロアスター教の二元論的世界観が主流となると、目立たない位置に追いやられた。それでもゾロアスター教の影響をそれほど受けない周辺部の古代アーリヤ人の間ではかなり後世まで生き残り、ローマ帝国におけるミトラ教、中央アジアにおける弥勒菩薩信仰などに形象された。<青木健『ゾロアスター教』2008 講談社学術選書メチエ p.34>ササン朝より前のアルサケス朝パルティアには全盛期であった前2世紀ミトラダテス1世などの王名は、ミトラ神に認められた者、という意味があったという。