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イエス/イエス=キリスト

ユダヤ教の形式化を批判し、十字架での処刑後、死後の復活を信じる人びとから救世主=キリストとされ、キリスト教の始祖となった。その言行は『新約聖書』によって伝えられている。

 イエスはアウグストゥス時代のローマの宗主権の下にあったヘロデ王の治めるユダヤ王国(パレスチナ)で生まれた。その年が後にキリスト紀元とされたが、実際には前7年のことと考えられている。30歳を過ぎた頃から、神の福音を伝えることに目覚め、宗教活動を開始した。彼はユダヤ教の律法主義を否定して、神の愛を説き、多くのユダヤ人に受けいえられたが、反ローマの嫌疑で処刑された。その復活を信じる使徒らの人々によって教団が成立し、やがてローマ帝国領内に広まり、民族を越えた世界宗教としてキリスト教に発展した。
 「キリスト」とはのちに与えられた「救世主」を意味するギリシア語から来た言葉。ユダヤ人として生まれてた実在の人物であるが、イエスの生まれた年を紀元元年とするのは6世紀のローマの修道僧ディオニシウス・エクシグウスという人が計算したことで、正しくない。 → キリスト紀元の項を参照

誕生の年代と場所

 聖書の記事からは紀元前4年以前と推定されている(前7年説が最も有力とされる)。なお、聖書のマタイ福音書第2章にイエスが生まれた時、輝く星を頼りに東方の博士たちがユダヤにやって来たという記事があるが、コンピューターで計算すると紀元前6年に木星と金星がほぼ一つに接し、大きな光を放ったとことがわかるという。これがマタイ伝の東方の博士たちが見た輝く星であったはわからない。ガリラヤ地方の大工ヨセフと妻マリアの子として生まれた。マタイ福音書ではベツレヘムで生まれたとされているが、それはダヴィデの子孫としてイスラエル王国の王家を継ぐものという意味を持たせるためであり、根拠はない。福音書では彼が育ったとされるナザレが、生誕の地でもあると考えられている。

伝道の開始

 28年、ガリラヤ地方に預言者ヨハネという人物があらわれ、荒野で人々に呼ばわり、終末の審判が近づいた、悔い改めて洗礼(バプテスマ)を受けよ、と説き始めた。これは旧来のユダヤ教の神殿の祭司による「罪の許し」を否定することなので、ガリラヤの領主ヘロデ=アンティパス(ヘロデ王の子)は捕らえて処刑してしまった。そのヨハネから洗礼を受けたのが若いイエスだった。イエスは、「神の国は近づいた、悔い改めよ」と伝道を開始し、ガリラヤ地方の貧民や病に苦しむ人々の中に入っていき、あちこちで病を治すなどの奇蹟を起こしたとされる。そして「十二使徒」をはじめとする信者が急激いに増えてきた。

十字架上の死と復活

 30年春。過越祭(ユダヤ人の出エジブトを記念する大祭)に都イェルサレムに信者を率いて上京した。下層の民衆は救世主(メシア)の到来と受け取ったが、ユダヤ教の指導者や保守派は、神殿体制という秩序を破壊する危険な動きとして領主ヘロデ=アンティパス、ローマの総督ポンティオ=ピラトに訴えた。当局はイエスの動きに反ローマの民衆蜂起につながる恐れを感じ、ローマ軍の手を借り、ゲッセマネの丘で「最後の晩餐」を終えた後、弟子の一人ユダの裏切りによってイエスは捕らえられ、裁判の結果、都の外れのゴルゴタの丘で盗賊二人と十字架にかけて処刑した。弟子たちはなすすべもなく逃げ隠れたが、イエスの死後間もなく、イエスを見たという弟子たちが現れ、彼らはイエスの「復活」をイエスを裏切ったことへの赦しととらえ、そこに原始的なイエスの信者の団体(原始教会)が生まれた。彼らはさらにイエスは再び昇天し神のもとで最後の審判を下す救世主(メシア、ギリシア語でキリスト)であると信じ、イエス=キリストと言うようになった。

イエスはなぜ処刑されたか

 ローマ総督ポンティオ=ピラトや領主ヘロデ=アンティパスは、預言者ヨハネとその洗礼を受けたイエスが、民衆を扇動して暴動を起こし、それがローマに対する反乱に及ぶことを潜在的に恐れていた。また、イェルサレム神殿の大祭司や最高法院の祭司、長老、律法学者(パリサイ派)はイエスの活動が神殿の権威を揺るがすことを強く恐れた。そのような中でイエスが過越祭でイェルサレムに登り、神殿の崩壊を宣言したことは決定的な弾圧の口実となった。直接的な証拠はなかったのでポンティオ=ピラトもいったんは無罪を宣言せざるを得なかったが、一転して民衆は「イエスを十字架につけろ」とその処刑を要求、ピラトはその要求に応えてイエスを処刑した。民衆は、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」というイエスの姿勢に飽き足らないものを感じ、たやすく捕らえられてしまったことに失望したのではないだろうか。

ユダヤ教イエス派

 イエスの生前にキリスト教が成立したのではない。イエスはあくまでユダヤ教の枠内で、その改革を主張し、容れられずに処刑されされたのであり、その使徒たちの活動も始めはイェルサレム周辺のユダヤ人社会に限られていた。この段階は原始キリスト教と言われることもあるが、「ユダヤ教イエス派」というのが実態に近い。イエスの教えから「キリスト教の成立」にいたるには、使徒のペテロなどによるローマでの布教、パウロがイエスの死を人間の原罪を贖うものと位置づけ、人種・民族を越えた救世主であると説いて世界宗教への転換をはかってからである。またパウロも自覚的に「キリスト教」と言っているわけではなく、ユダヤ教とキリスト教が明確に分離するのは、ユダヤ戦争でイェルサレム神殿が最終的に破壊された70年から1世紀にかけて、キリスト教独自の経典である新約聖書の根幹の福音書が編纂された頃である。<参考 『聖書時代史・旧約編』2003 岩波現代新書 p.144-145>
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