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ヘカトンピュロス

古代イラン、パルティア王国の都。イラン高原北部にあった。1世紀半ばに都はクテシフォンに移された。

パルティアの都の一つ

 パルティアの早い時期の都の一つ。イラン北部の、カスピ海に近いところに建設された。パルティアは後に、シリア・イラク方面に進出し、都をティグリス川に面したクテシフォンに遷した。もともとパルティア人は遊牧イラン系の民族であるので、一ヶ所に都を維持するという事はなかったと思われる。
 → ヘカトンピュロスの推定位置

百の門をもつ都

 ヘカトンピュロスはアケメネス朝時代すでにカスピの海港とホラサン地方とを結ぶ幹線路上の重要な駅停であった。かつてアレクサンドロス大王が、バクトリアのベッソスを追ってヒュルカニアに軍を進めたおり、進軍三日目にヘカトンピュロスの近くで宿営したという。そこは「歓楽に金銭糸目をつけぬ豊かな町であった」という。クィントゥス=クルティウスは「この高名な町ヘカトンピュロスはギリシア人によって創建されたものである」(『アレクサンドロス大王伝』)という。ギリシア人とはおそらくセレウコス朝の創始者セレウコス1世(ニカトル)であろう。
(引用)パルティア史のなかでこのヘカトンピュロスが初めて姿を現すのは、前211年のアンティオコス3世の東方遠征のおりであり、それを書きとめたのは、前2世紀のヘレニズムの歴史家ポリュビオスである。アンティゴノス3世は、エクバタナを落とし、さらに兵を東方に進め、「砂漠を抜けて、当時パルティアの中心にあったヘカトンピュロスと呼ばれる町に至った。この町の名は、周辺地域に通ずるすべての道がここに集まってきていることからヘカトンピュロスとつけられているのである」<歴史>と。ギリシア語のヘカトン(百)とペルシア語のプール(橋)の音写であるピュロスの合成語であるヘカトンピュロスは、文字どおりここに集中する道に通ずる「百の門をもてる」町の意であったのである。<前田耕作『バクトリア王国の興亡』2019 ちくま学芸文庫 p.141 初刊1992>
 ヘカトンピュロスがいつごろパルティアの首邑の一つになったのか、正確な日付はわかっていない。ニサが繁栄していた時期よりもかなり後であろうと推定されている。『漢書』にみえる安息国の「番兜(ばんと)城」がニサを指し、『後漢書』の記す「和櫝(わとく)城」がヘカトンピュロスを示すと考えれば、武帝の使者を迎えたミスラダテス2世以降のいずれかの時期に、王城はニサからヘカトンピュロスに移されたものと思われる。<前田『前掲書』p.142>

砂漠に消えた古都

 ヘカトンピュロスのあった場所も、今日でも未詳である。多くの学者はカスピの門より1260スタディオンの距離にあり、ダムガーンとフラートの間の古邑シャハレ・クンミスであろうと推定しているが、考古学的な確実な裏付けはない。「百門の町」古都ヘカトンピュロスはまだダムガーン南方のいずれかの砂丘に埋もれたままなのであろう。<前田『前掲書』p.142>
(引用)アルサケス朝(パルティア)に脱ヘレニズムの傾向があらわれてくるのは、紀元前1世紀のころである。バビロニアに支配権をうちたてた時、アルサケス朝の王はギリシア人の都市セレウキアを嫌って、ティグリス川の対岸にクテシフォン(ティースフーン)をたて、軍隊を駐屯させた。パルティアにはヘカトンピュロス(「百の門柱」の意。おそらく今日のシャハレ・クンミスの遺跡であろう)とギリシア人が呼んだ首都があったが、クテシフォンが整備され堅固な城壁に囲まれるようになると、ここに首都機能が移され、紀元前1世紀の半ば、オロデス2世の時代にヘカトンピュロスは完全に放棄された。必要なくなった建物は、内部をすっかり撤去した上、ていねいに埋められた。ここからはまだ文字資料が出ていないので、当時のパルティア語名を知ることはできない。<中央公論社『世界の歴史4 オリエント世界の発展』1997 p.243>
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書籍案内

前田耕作
『バクトリア王国の興亡』
2019 ちくま学芸文庫

バクトリアだけでなく、セレウコス朝、パルティア、クシャーナ朝などヘレニズム諸国について詳細な記述がある。