線文字B
古代ギリシアのミケーネ文明期の文字で、ギリシア語を表記していたことが判明した。ミケーネ文明崩壊と共に忘れ去られていたものを、1953年、ヴェントリスが解読した。
線文字Bの例
『ギリシアとローマ』世界の歴史5 中央公論新社 p.31 より
『ギリシアとローマ』世界の歴史5 中央公論新社 p.31 より
ミケーネ文字とも言う。1900年にイギリス人エヴァンズがクレタ島のクノッソス遺跡を発掘したとき、大量の粘土板が出土し、そこに未知の文字が彫られていることがわかった。発見者エヴァンズによって、これらの文字はエジプトの神聖文字(ヒエログリフ)に似た絵文字と、先の尖った棒で柔らかな粘土版に線を付けて書かれた線文字とに分けられ、線文字はさらに線文字Aと線文字Bに分けられた。より古い要素を持つ線文字Aにたいして、簡略化した書体を持つのが線文字Bである。その後、1939年にはペロポネソス半島南西部の発掘により、線文字Bの記された粘土板が大量に出土、その地はトロイア戦争の老英雄ネストールの宮殿のあったピュロスであることが証明された。さらに線文字Bはギリシア本土のミケーネ遺跡からも出土し、エーゲ海域から本土まで広く使われていたことが判ってきた。
このように第一発見者であり、権威のあるエヴァンズが線文字は非ギリシア人の文明のものと考え、ギリシア語との関連はないと主張したため解読は遅れ、しかもエヴァンズは発掘した線文字B資料の全面公開を行わなかった。エヴァンズは自ら発見した文字を解読できぬまま、1941年に死去した。こうして線文字Bの解読は戦前には進展しなかったが、新たな発掘品が増加してくると、本土のギリシア人がクレタ島を支配したとする説が有力となり、線文字を用いたのはギリシア人であることを前提に、解読が進められることとなった。
線文字Bは、現在ではミケーネ文明期の文字として認められ、その解読が進んでおり、それまでのホメロスが伝える歴史の実態が明らかになっている。しかし、線文字Aの解読はまだ成功していない。これを、セム系の言語とするか、ヒッタイトに近いインド=ヨーロッパ語と見るか、二つの立場が対立している。
ミケーネ文字の解読の遅れ
発見者のエヴァンズはこれらの文字をミノア文字と総称したが、現在では一般的にミケーネ文字と言われる。この三種類のミケーネ文字の解読が試みられたが、解読の成否はその文字で書かれたことばが何語であるかを正しく決定することであった。エヴァンズはクレタ島と本土に同じ線文字が発見されていることをクレタ人が本土支配したためであると解し、したがって線文字は非ギリシア系のクレタ人のことばを表示したものとする立場を強く主張した。このように第一発見者であり、権威のあるエヴァンズが線文字は非ギリシア人の文明のものと考え、ギリシア語との関連はないと主張したため解読は遅れ、しかもエヴァンズは発掘した線文字B資料の全面公開を行わなかった。エヴァンズは自ら発見した文字を解読できぬまま、1941年に死去した。こうして線文字Bの解読は戦前には進展しなかったが、新たな発掘品が増加してくると、本土のギリシア人がクレタ島を支配したとする説が有力となり、線文字を用いたのはギリシア人であることを前提に、解読が進められることとなった。
ヴェントリスによる解読
ようやく第二次世界大戦後の1953年に、イギリス人のヴェントリスによって、古いギリシア語を表記したものであることが判明した。ヴェントリスは若い建築家であったが、少年の頃からエーゲ文明に異常な興味を持ち、線文字Bのテクストを綿密に分析してデータ化し、暗号解読の方法を用いて解読に成功した。結果を発表するにあたって言語学者のチャドウィックの協力を得た。イギリス人はこの快挙を、ヒラリーによるエベレスト登頂にならぶ1953年の十大事件にかぞえた。しかし、1956年9月6日、この天才は交通事故によって34歳で急逝してしまった。線文字Bは、現在ではミケーネ文明期の文字として認められ、その解読が進んでおり、それまでのホメロスが伝える歴史の実態が明らかになっている。しかし、線文字Aの解読はまだ成功していない。これを、セム系の言語とするか、ヒッタイトに近いインド=ヨーロッパ語と見るか、二つの立場が対立している。