クレタ島
エーゲ海の南に横たわる大きな島。前2000年ごろクレタ文明が繁栄し海上王国が成立。その後も交易の場として続き、抗争の舞台となる。現在はギリシア領。
クレタ文明
地中海世界につながるエーゲ海の南端に位置するギリシア領最大の島。エジプト、小アジア、メソポタミアに近く、東地中海の文明の交流の舞台となった。前2000年頃、クレタ文明が栄え、海洋王国が繁栄した。クレタ文明は理由は不明であるが次第に衰退し、前1600年ごろからエーゲ文明の中心はギリシア本土のミケーネに移行する。前1400年ごろにはクレタ王国もギリシア本土から侵攻したアカイア人に征服されたと考えられている。
クノッソス遺跡の発見 その中心のクノッソス遺跡は1900年にイギリスのエヴァンスによって発掘され、王宮跡などがみつかっている。クレタ文明には文字も発見されており、それはクレタ絵文字といわれ、クレタ文明後期には線文字Aが生まれているが、いずれも未解読であり、その民族系統も不明である。ギリシア神話ではクレタ島にはミノス王という王が住んでいたとされているので、ミノス文明とも言われ、ギリシアの歴史の一部とされている。
Episode 「クレタ人は嘘つきだ」
クレタ島は、エヴァンスがクノッソス遺跡を発掘したことで、ギリシア本土で文明が栄える前に、すでに高い文明を有していたことが判明して有名になったが、その昔「クレタ人は嘘つきだ」と言われていた。こんなことを言ったのは前6世紀の古代ギリシアの哲学者でエピメニデスという人だ。ところがなんとこの人は、クレタ人だった。エピメニダスがいったとおりだとすると、クレタ人は正直ものということになる。どうどうめぐりで頭がこんがらかってしまう。こういう頭の訓練を古代ギリシアの哲学者はよくやっていた。有名なストア哲学の祖のキプロスのゼノンは、アキレウスが亀を追いかけ、ようやく亀が居た場所まで行ったときは亀はすこし先に行っている。次にそこまで行ったときにも少しは進んでいる・・・つまりいつまで行っても追いつけないことになる、という「ゼノンの逆理」といわれる理屈を持ちだしている。これも同じような頭の訓練だった。<樺山紘一『ローマは一日にしてならず――世界史のことば』1985 岩波ジュニア新書 p.12>ヴェネツィアの支配
前66年にローマ領となり、長くその支配を受けた後、3世紀以降はゲルマン系民族の侵攻を受けた。東地中海の交易上、重要な位置にあったので、9世紀からはビザンツ帝国とイスラーム勢力の抗争地となる。13世紀以降は第4回十字軍を機にイタリアのヴェネツィア商人が進出、レヴァント貿易の拠点となった。ヴェネツィアの支配したクレタ島ではルネサンスの影響がおよび、クレタ島出身のエル=グレコ(グレコはギリシア人の意味)はヴェネツィア派の絵画を学び、1577年からはスペインのトレドで活躍した。オスマン帝国の支配
17世紀中頃からはオスマン帝国の支配を受けることとなった。しかしその後もギリシア正教とイスラーム教の対立が続いた。1830年にギリシア王国がオスマン帝国から独立すると、クレタ島はエジプト総督領とされたが、1840年にはオスマン帝国領に戻された。オスマン帝国の動揺が深まる中、クレタ島の正教徒もギリシアへの併合を掲げてオスマン帝国とたびたび衝突、ついにバルカン戦争(第1次)後の1913年にギリシア領となった。そのため、多くのイスラーム教徒はクレタ島を離れ、1924年には小アジアのギリシア人との住民交換でほとんどがトルコに移住した。