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奴隷/奴婢(中国)

主として古代社会の隷属民を奴隷という。中国では殷代に存在し、その後も身分として奴婢が長く続いた。朝鮮・日本の古代にも存在した。

 奴隷は、古代のギリシアの奴隷制ローマの奴隷制など、人類史上、広くその存在が認められる。またヨーロッパ諸国におる大西洋黒人奴隷貿易、さらにイスラーム世界での黒人奴隷貿易が行われ、アメリカの黒人奴隷制度は19世紀まで存続した。
 中国を中心とした東アジア世界にも奴隷は存在し、奴婢(ぬひ。奴が男性の奴隷、婢が女性の奴隷)と呼ばれた。奴隷は、身体その他の自由が無く、農耕や鉱山などの労働や、貴族・豪族の所有物として家内労働に従事した。ギリシアやローマと同じく、戦争での捕虜が奴隷とされたが、中国の場合は漢民族の周辺民族が奴隷源となった。

中国史の中の奴隷

 中国の古代王朝では王権を支える奴隷制が存在したと考えられ、特に殷王朝の王墓とされる殷墟から発見された多数の人骨を奴隷とみる説がある。奴隷はその後の周・春秋戦国をへて秦漢時代にも存在したことは、文献・遺跡からもわかっており、特に後漢から南北朝時代に成長した豪族は、多くの奴隷を所有し、その大土地経営で農耕や織布などで使役した。唐の律令制度では身分制として良民と賎民が区別され、賎民の中の最下層に奴婢が置かれた。奴婢には官庁が使役する官奴婢と貴族の使役する私奴婢があった。しかし、中国の古代については、ギリシアやローマのような奴隷が社会の生産力の主力となっていた「奴隷制社会」であったことには否定的な見方が多い。
 唐・宋時代をつうじて生産力が向上するとともに奴隷労働の比重は徐々に低くなり、小作農的な農民として佃戸が生産を担うようになった。佃戸は西欧における農奴とみることができる。
 明末清初に頻発した奴変は、生産力が向上した江南地方で起こった織物生産に従事する家内奴隷の解放を求める運動であった。中国では法的な身分としての奴婢の制度は清末の1909年まで続いた。朝鮮では新羅時代にはカースト制的な骨品制が発達し、その中で奴婢は最下層に置かれ、身分としては李朝時代の19世紀まで存続した。日本の古代社会では唐の律令制を取り入れて奴婢が存在したが、荘園が発達する中で領主と農奴からなる封建社会に移行していった。

殷墟の人骨から考えられること

 1927年に発掘が開始され、古代殷王朝の存在を明らかにした殷墟から、甲骨文字の彫られた亀甲・獣骨、青銅器類とともにおびただしい数の人骨が出土している。これらの人骨は頭部と胴体が切り離されているなど、残虐な扱われ方がされている。それらは、現在では祭祀の犠牲にされた異民族の遺体や、王族に殉死したものの遺体であろうと考えられている。この人骨については、奴隷であり、殷代に奴隷制があったことの証拠だとも考えられた。その考えは、発掘当時の中国でも強い影響を与えていたマルクス主義の歴史観である、古代奴隷制→中世封建制→近代資本主義社会という法則性をあてはめようとする考えで、歴史学者・文学者であると共に共産党の幹部であった郭沫若などが唱え、有力になった。
 郭沫若は、奴隷の存在は甲骨文字にも見られるとして、「衆」のもとになった甲骨文字は太陽の下で多数の人間が労働に従事しているさまを象った文字であり、奴隷の存在を示していると主張した。その奴隷制社会論は広く受け入れられたが、それに対して甲骨文字の「衆」は用例を広く検討すると、奴隷ではなく支配者を示しているのではないかという反論が出された。その後も殷代には奴隷は存在したが、彼らは生産労働の主要な担い手とは言えないから、奴隷制社会とは言えないという説が出されるようになった。
 日本の甲骨文字研究者として著名な白川静は、甲骨文には羌人や南人などの種族が祭祀の犠牲とされた例が多いとして、殷墟で発見される人骨もその「人牲」として捕獲された遺体で、農業生産奴隷とは別な存在であると論じた。「衆」の文字も甲骨文の用例から、農耕や戦争といった国家的な活動のために召集された集団を示しており、その字形も四角形の邑の城郭のもとに人々が跪くさまをかたどったものして郭沫若説を否定した。
 ただし、奴隷制社会とは言えない、という説の場合も、殷周時代に一定数の奴隷が存在したことは否定してはいない。あくまで奴隷は存在したが農業など生産労働の主要な担い手であったとは言えない、という説が現在の中国において主流となっている。中国の学術でのマルクス主義の影響は小さくなかったものの、ナショナリズムの興隆の影響の方が優位になっていると見られている。<佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』2018 星海社新書 p.53-57>