奴隷(ローマ)
古代ローマの繁栄を支えた大土地所有制の労働力として、主に海外との戦争で得られた捕虜が奴隷とされ、奴隷制経営が行われた。一部は剣闘士奴隷として市民の娯楽に供された。奴隷制経営は共和政末期のイタリア、シチリアで展開されたが、帝政期になると次第に小作農経営に移行していった。
古代ローマもギリシアと同じく奴隷制社会であったが、ギリシアが家内奴隷が主であったのに対して、ローマは奴隷制による大土地所有制(ラティフンディア)が発達した。また奴隷の数も膨大で、ローマの征服戦争によって属州としたところから得られた捕虜がその供給源であった。奴隷は人権は認められず商品として売買され、奴隷主に服従した。奴隷の中にもその身分から解放されて解放奴隷となるものもあったが、ローマでは解放奴隷の中から市民権を認められる者もあった(ギリシア・アテネの奴隷は解放されても市民権は与えられず、在留外人とされた)。また奴隷の中には、武術に優れた者を剣奴(剣闘士奴隷)とする特別な場合もあった。彼ら奴隷は厳しい搾取のもとにあったので、前2世紀ごろからしばしば奴隷反乱を起こした。シチリアの奴隷反乱に続いて、前1世紀には剣奴(剣闘士奴隷)が蜂起してスパルタクスの反乱が起こり、ローマ共和政を動揺させた。
ローマ奴隷制は帝政時代も継続するが、ローマ領が最大となり対外戦争が行われなくなると次第にその供給が減少し、またあい次ぐ奴隷反乱によって、奴隷の待遇も少しずつ向上し、コロヌス制に移行していく。 → ギリシアの奴隷制度 中国の奴隷/奴婢
しかし、農業経営のなかで奴隷制経営が優先していたのは、古代のなかでは稀な例で、イタリアの他にシチリアがそれに匹敵し、その他には古典期のアテネで小農民の奴隷を用いての経営が優先していたぐらいである。かつては地中海世界全般にわたって奴隷制が優越していた、従ってローマ帝国は奴隷制社会であった、と見做されていたが、現在は否定的に見られている。たしかにギリシア・ローマ時代を通じ、奴隷はあらゆる職種、分野に及んでいたので、そのような印象を受けたのもやむをえないが、あらゆ職種において奴隷労働が自由人労働を圧倒するほど優越していたとは言えない。その意味で古典古代を「奴隷制社会」と呼ぶことは、学問的には正しいとは言えない。<弓削達『ローマはなぜ滅んだか』1989 講談社現代新書 p.98-99>
イタリア農業について言えば、大土地所有の奴隷制経営は、帝政期の進行とともに衰退の兆しを見せ始め、小作制(コロヌス制)の優位に移行していく。<弓削達『同上書』 p.99>
ローマ奴隷制は帝政時代も継続するが、ローマ領が最大となり対外戦争が行われなくなると次第にその供給が減少し、またあい次ぐ奴隷反乱によって、奴隷の待遇も少しずつ向上し、コロヌス制に移行していく。 → ギリシアの奴隷制度 中国の奴隷/奴婢
奴隷の売買
(引用)奴隷は急流のように流れ込んだ。前177年、一挙に四万のサルデーニャ人が奴隷としてローマに連れてこられ、その十年後、エペイロス人五万が同じ運命に陥る。ローマ軍団は今やギリシアを超え、あるいはアジア、あるいはドナウ河流域、はてはロシアとの境界にまで進入しつつあったが、奴隷商人はその軍旗のあとをついて歩いた。いくらでも奴隷を確保できたから、デロス島の国際奴隷市場で一万人の奴隷が一度に売買されるくらいは日常茶飯事となり、値段も一人当たり五〇〇円程度まで下がった。<モンタネッリ/藤沢道郎訳『ローマの歴史』中公文庫 p.161>
参考 カトーの奴隷
プルタルコスの『英雄伝』には、ギリシアとローマの歴史上の人物の伝記を対比させて論じているが、様々な情報が載せられていて興味深い。その中のローマ共和政時代の政治家、軍人、弁論家として名高いカトー(大カトー)の話の中に、ローマの奴隷主と奴隷の関係を知ることのできる逸話がいくつか載せられている。<以下、プルタルコス/村川堅太郎訳『プルタルコス英雄伝』中 ちくま学芸文庫 p.255-294>- カトーはいつも質素な生活を心掛け、法務官になってもコンスルとなっても奴隷と同じ酒を呑み、1500ドラクメ以上の奴隷は買ったことがなかった。彼によれば必要なのは柔弱だったり美しい奴隷ではなくて馬丁や牛追いのように仕事に精出すがっしりした奴隷であり、かような奴隷であっても齢をとりすぎたら売り払うべきで役に立たぬ者を養うべきでないと考えていた。<p.621>
- サルディニアの属州を任地としたときも節約に努め、属州民を苦しめないように、どこに行くにも車に乗らず、国有奴隷一人をお供にするだけだった。<p.263>
- 妻は自分の乳で子を育てたので、しばしば奴隷の子どもにまで乳房をあてがって、奴隷の子が一緒に育ったことから自分の息子に対し親しみを懐くように図っていた。子供に知恵がつきはじめるとカトーは自分で引き取って文字を教えた。しかも彼は読み書きの先生で大勢の子供たちに教えていたキロンという上品な奴隷を抱えていたのであった。……<p.283>
- カトーは沢山の奴隷を所有していたが、それは多くの場合、捕虜のうちのまだ若くて子犬や仔馬のようにこれから養育と仕込みのできるものを買ったのであった。……奴隷は家では何か用事をしているか眠っていなければならなかったが、カトーはよく眠る者を特に喜んだ。それはそういう奴隷がめざとい者より穏順で、よく眠った者は眠りの足らぬ者よりもどんな仕事にも使いやすいと考えたからだ。<p.284>
- また奴隷たちがいい加減な仕事をする最大の理由は色恋にあると思って、奴隷たちに一定の金額を納めて女奴隷と交わらせ、他のいかなる女に近づくことも禁じた。<p.285>
- ……食事が終わるとすぐに、何に限らず行き届かなかった給仕人や料理番を鞭で懲らした。また絶えず奴隷たちの間に仲間割れがあって互いに喧嘩をするように工夫していたが、それは彼らの一致団結を想像して恐れたからであった。何か死刑に値することを行ったと思われる奴隷は、すべての奴隷の面前で裁き、有罪と決まれば死刑に処した。<p.285>
- 彼はまた奴隷のうちの希望者に金を貸し与えた。彼らはそれで子供たちを購い、カトーの費用で訓練し、教育した上で売却した。そしてカトー自身が多数の子供を手許に押さえておき、買入れ希望の奴隷の付けた最高価格を目安にして売りつけていた。<p.286>
- 妻を失ってから……男やもめになった自分は若い奴隷女と関係し、こっそり自分の所にかよわせた。(しかし若い息子夫妻がそれをいやがったので、カトーは友人を言い含めてその娘を新しい嫁として迎えた。)<p.289>
ローマの奴隷制
ローマの繁栄と爛熟した文明の経済的基礎は、イタリア半島から地中海世界の各地に形成されたラティフンディア(大土地所有制)であった。シチリアではすでにカルタゴ支配時代から大土地所有による果樹栽培が行われていたが、ポエニ戦争でシチリアを獲得したローマはその経営を採り入れ、さらに海外戦争で流入した捕虜を奴隷とすることで、奴隷制大農園を普及、発展させていった。当時の農業書などによってラティフンディアにおける奴隷労働をみると、次のようなものであった。(引用)直営地の労働力はおもに奴隷で、粗悪な掘立小屋に集団的に居住し、同じ奴隷身分の監督(ウィルリクス)のもとに夜明けから日没まで働かされた。彼ら直営地奴隷の労働条件は、都市生活の自由人の家事労働をさせられている奴隷よりはるかに劣悪で、少しでも反抗的な奴隷は、鎖を足につけられ、または仕置部屋(エルガストゥルム)に鉄の足かせをつけて放り込まれた。監督奴隷だけは妻を持つことを許されたが、監督夫婦は経営の一部をまかされて奴隷労働を最大限搾取することを任務とした。<弓削達『ローマはなぜ滅んだか』1989 講談社現代新書 p.96-97>
コロヌス、あるいはコロヌス的奴隷の増加
しかし、奴隷労働への不断の監視を必要とする奴隷制直営地を維持し、拡大するのには一定の困難があった。その一方で、法的には自由人であるが所領主から土地を借りて耕作する小作人(コロヌス)のなかで、小作料の滞納などでそこから離れられなくなった者や、奴隷のなかにもわずかな土地でも分け与えられて耕作している小作人的奴隷(その土地を離れることはできなかった)が次第に増えていった。ローマ帝国は奴隷制社会だったか
このようにイタリアの大土地所有農業は、奴隷制労働による直営方式の果樹・牧畜経営と、小作制に傾斜していく穀物畑が併存し、その他に自由民の農民による小経営も存在した。その中で奴隷制大農園が農業経済のなかで優越していたことは確かである。しかし、農業経営のなかで奴隷制経営が優先していたのは、古代のなかでは稀な例で、イタリアの他にシチリアがそれに匹敵し、その他には古典期のアテネで小農民の奴隷を用いての経営が優先していたぐらいである。かつては地中海世界全般にわたって奴隷制が優越していた、従ってローマ帝国は奴隷制社会であった、と見做されていたが、現在は否定的に見られている。たしかにギリシア・ローマ時代を通じ、奴隷はあらゆる職種、分野に及んでいたので、そのような印象を受けたのもやむをえないが、あらゆ職種において奴隷労働が自由人労働を圧倒するほど優越していたとは言えない。その意味で古典古代を「奴隷制社会」と呼ぶことは、学問的には正しいとは言えない。<弓削達『ローマはなぜ滅んだか』1989 講談社現代新書 p.98-99>
奴隷制社会とは
「奴隷制社会」の規定を「基本的生産である農業において奴隷制的生産関係が優越している社会」とすれば、この規準に妥当する地域と時期についてのみ該当することになる。地中海世界についていえば、共和政末期から帝政初期にかけてのイタリアとシチリア、それに古典期のアテネが「奴隷制社会」と認めることができる。イタリア農業について言えば、大土地所有の奴隷制経営は、帝政期の進行とともに衰退の兆しを見せ始め、小作制(コロヌス制)の優位に移行していく。<弓削達『同上書』 p.99>
ローマの奴隷制をどうみるか
ローマ市民社会では、人間は法的にも自由人と奴隷にはっきりと分けられていた。自由人はさらに、出生からの自由人なのか、奴隷であった者が解放されて自由人になった(解放奴隷)なのかが峻別されていた。人を物として所有しその労働の成果を搾取する奴隷制は、歴史上の多くの社会に見出されるが、その中でも古代ローマは典型的な奴隷制社会であるといわれることがある。ところが、近年の実証的な研究で、奴隷制大農場が普及していたのは、ローマの海外征服戦争の相次ぐ勝利によって、莫大な数の奴隷が安価に流入していた前1~2世紀の中・南部イタリアのみであると、指摘されることが多い。この結果、ローマ市民社会を、全体として奴隷制社会と呼ぶことは、困難になりはじめている。<島田誠『古代ローマの市民社会』1997 世界史リブレット3 山川出版社 p.73>