フィリッポス2世
マケドニア王で国力を増強させ、前338年にカイロネイアの戦いでギリシアのポリス連合軍を破り、本土を制圧、コリントス同盟を結成した。ペルシア遠征軍をおこしたが、前336年暗殺され、その事業は子のアレクサンドロスに継承された。
マケドニアの国王。フィリップとも表記。在位前359~前336。ギリシア北方の後進国であったマケドニアを強国に育てた。若い頃テーベで人質としてすごし、重装歩兵密集部隊戦術を学んだという。祖国に帰り権力を統一し、騎兵隊の組織化、長槍で装備した重装歩兵部隊などの軍制を採用し、ペロポネソス戦争後のギリシアの混乱に乗じてギリシア本土に侵攻した。
このフィリッポス2世の暗殺は次のような情景として描かれている。饗宴の翌日、宮殿のすぐ下にある劇場で音楽の競技会が開催される予定であった。観衆が続々と詰めかける中、アレクサンドロスやクレオパトラと新婚の夫を従えたフィリッポスが劇場に姿を現した。
フィリッポス2世暗殺事件は同性愛のもつれからのパウサニアスの単独犯という見方が一般的であるが、古来、その真相を巡って幾つかの説がある。その中には、何と、パウサニアスの背後にはフィリッポス2世の妻オリュンピアスとその子アレクサンドロスがいたというものがあり、それも二人の共謀という見方と、いずれか一人がそそのかしたという見方などに分かれる。
その理由は当時フィリッポス2世はオリュンピアスを遠ざけ、クレオパトラ(エジプトの有名な人物ではない。クレオパトラという女性名はギリシアではよくあるようだ)という女性と結婚(マケドニア王家は代々一夫多妻制だった)し、もしそちらに子供が生まれれば、アレクサンドロスの王位継承権が奪われるかもしれない恐れがあった。事実、フィリッポス2世とアレクサンドロスの父と子の関係は、必ずしも良好ではなかった。ということで、フィリッポス2世暗殺事件の真相は、古代マケドニア史の学術的問題ともなっている。
くわしくは、森谷公俊氏の一連の書籍が最も詳しいので、それらを参照するとよいでしょう。森谷氏には、帝京大学史学部西洋史特殊講義で「フィリッポス2世暗殺事件の真相」を取り上げたレポートに、学生の答案なども紹介されていて大変参考になる。高校の世界史の授業でも参考になります。<森谷公俊『学生をやる気に指せる歴史の授業』2006 青木書店 p.129-137>
カイロネイアの戦いでギリシアを制圧
前338年、カイロネイアの戦いでアテネ、テーベなどのポリス連合軍を破り、ギリシア本土の都市国家を屈服させた。さらに翌年スパルタを除くヘラス(ギリシア本土)のポリスを加盟させてコリントス同盟(ヘラス同盟)を結成し盟主としてギリシア支配をはかり、ペルシア遠征を準備した。アテネのデモステネスはマケドニアの支配に反対し、抵抗したが、事成らず自殺した。フィリッポスはペルシア遠征の準備を進めたが、前336年、娘の結婚式場でパウサニアスという側近の護衛官に暗殺された。その遺志は息子のアレクサンドロスに託されることとなった。Episode 「ピリッポス、あなたは人間ですぞ」
ローマ時代(2~3世紀ごろ)の著述家アイリアノスは『ギリシア奇談集』で、フィリッポスのギリシア征服を非難しているが、次のようなフィリッポス2世の姿勢も伝えている。(引用)ピリッポス(フィリッポス2世)はカイロネイアの戦いでアテナイ軍を破り、勝利に意気大いに揚がったが、しかも平常心を堅持して驕慢に陥ることはなかった。そのためには、自分が人間の身であることを忘れぬように、毎朝家来の一人にそのことを言わせて思いを新たにするのが良いと考え、家来にその役目を与えた。伝えられるところでは、毎日例の家来がピリッポスに向かって、「ピリッポス、あなたは人間ですぞ」と三度大声で言うまでは、自分も人前には出ず、面会を求める者も自分のもとへ通させなかったという。<アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p.230>このようにフィリッポスには人間たる自制心があったが、その子アレクサンドロスは、ダレイオス3世を破ってペルシア帝国を手にいれた時、うちつづく幸運に思い上がり、今や自分が神になったと思い込み、ギリシア人に自分を神格化する決議を命じた。<同上 p.74>
フィリッポス2世暗殺事件
前336年春、フィリッポスは次なる大目標であるペルシア遠征に着手、重臣のパルメニオンらの率いる先遣部隊を小アジアに上陸させ、次々とギリシア諸都市を解放していった。いよいよ本隊を率いて出発する前に、フィリッポスは娘クレオパトラ(母やオリュンピアス。アレクサンドロスの妹)と隣国モロッソイの王子との結婚式を挙行した。初夏の古都アイガイでの祝典はペルシア遠征の壮行会を兼ね、盛大に行われた。ところがその翌日、劇場で行われた結婚披露の音楽競技会の開会式典で、フィリッポスは護衛の貴族パウサニアスに槍で突かれ即死してしまった。あっけなく生涯を終えたフィリッポスの東方遠征という事業は、息子のアレクサンドロスが継承することとなった。このフィリッポス2世の暗殺は次のような情景として描かれている。饗宴の翌日、宮殿のすぐ下にある劇場で音楽の競技会が開催される予定であった。観衆が続々と詰めかける中、アレクサンドロスやクレオパトラと新婚の夫を従えたフィリッポスが劇場に姿を現した。
(引用)行列が終わると、満場の観衆が見守る中、白い衣をまとったフィリッポスが劇場の入り口に姿を現した。左右には二人のアレクサンドロスを伴っている。息子のアレクサンドロスと、花婿であるモロッソイ王のアレクサンドロスである。マケドニア人の朋友たちは先に入場して王の着席を待っている。王のすぐ後ろには側近護衛官たちが従った。フィリッポスは振り向いて、側近護衛官たちに自分から離れてついて来るように指示した。自分の威信も世人から受ける信頼も、もはや護衛を必要としないほど大きいということを示したかったのだろうか。ただ護衛官の一人パウサニアスだけは王から遠ざかろうとせず、入口の門のそばに立ったままだったが、フィリッポスはそれに気づかなかった。実行犯パウサニアスは劇場を飛びだし、逃走用に用意してあった馬に向かって走り出したが、護衛兵たちが追いかけ、彼を取り押さえて槍で殺した。劇場の観衆の目前で白昼堂々と行われた暗殺劇。栄光の絶頂から一瞬にして奈落の底へ。フィリッポス46歳。まさに人生の盛りにおける不意打ちの如き最後だった。
それから王が玉座に向かって歩み始め、二人のアレクサンドロスからすこし離れた一人だけになったその瞬間、パウサニアスは素早く王のそばへ駆け寄り、懐に隠し持っていた短剣でフィリッポスの胸を刺し貫いた。フィリッポスは大の字になって地面に倒れた。<森谷公俊『アレクサンドロスとオリュンピアス』2012 ちくま学芸文庫 p.108-9 初出は1997 ちくま新書>
Episode 同性愛のもつれからか
暗殺者パウサニアスには王を殺す個人的な理由があった。同性愛関係のもつれが原因でフィリッポスに恨みを抱いていたのである。たったそれだけで、と言われそうだが、ギリシアと同じく男性間の同性愛が普通だったマケドニアでは、けっして珍しい事ではない。事実、前5世紀末のアルケラオス王も、同性愛が原因で若い愛人(もちろん男性)に殺害されている。王族同士の血なまぐさい争いや粛清が日常茶飯だった世界では、王の暗殺すら突出した出来事ではなかったのである。フィリッポス2世暗殺事件は同性愛のもつれからのパウサニアスの単独犯という見方が一般的であるが、古来、その真相を巡って幾つかの説がある。その中には、何と、パウサニアスの背後にはフィリッポス2世の妻オリュンピアスとその子アレクサンドロスがいたというものがあり、それも二人の共謀という見方と、いずれか一人がそそのかしたという見方などに分かれる。
その理由は当時フィリッポス2世はオリュンピアスを遠ざけ、クレオパトラ(エジプトの有名な人物ではない。クレオパトラという女性名はギリシアではよくあるようだ)という女性と結婚(マケドニア王家は代々一夫多妻制だった)し、もしそちらに子供が生まれれば、アレクサンドロスの王位継承権が奪われるかもしれない恐れがあった。事実、フィリッポス2世とアレクサンドロスの父と子の関係は、必ずしも良好ではなかった。ということで、フィリッポス2世暗殺事件の真相は、古代マケドニア史の学術的問題ともなっている。
くわしくは、森谷公俊氏の一連の書籍が最も詳しいので、それらを参照するとよいでしょう。森谷氏には、帝京大学史学部西洋史特殊講義で「フィリッポス2世暗殺事件の真相」を取り上げたレポートに、学生の答案なども紹介されていて大変参考になる。高校の世界史の授業でも参考になります。<森谷公俊『学生をやる気に指せる歴史の授業』2006 青木書店 p.129-137>