コリントス同盟
前337年、マケドニアの主導で結成されたギリシアの都市国家間の同盟。ポリスの独立は形式的には認められたが、事実上マケドニアの覇権が確立した。
前337年、マケドニアのフィリッポス2世がギリシア本土を征服し、スパルタを除いて支配下に入ったポリス間で結成させた同盟。ポリス間の抗争は禁止され、マケドニアの実質的な軍事・外交上の主導権を認めた。コリント同盟、ヘラス同盟、ヘレネス同盟とも言う。
各ポリスは自由で独立した対等な権利が保障されたが、相互の抗争は一切禁止され、また政体の変更、私有財産・貸借関係の変更も禁止、海賊行為も禁止された。
こうしてギリシアの軍事・外交の権限はすべてマケドニアのフィリッポス2世に握られ、事実上、前8世紀から続いたアテネ民主政の時代は終わりヘレニズム期に移行していくこととなる。ただし、形式的にはアテネなど諸ポリスは消滅したのではなく、独立国家として存続している。
前335年には一時期に有力ポリスの一つだったテーベがマケドニアからの離反をはかり、兵を挙げたが、アレクサンドロスは一気にテーベを急襲して降伏させ、コリント同盟会議を開催してテーベの処遇を審議させ、徹底した破壊と領土の分配、住民を奴隷として売却することなどの苛酷な決定をしている。
前334年、アレクサンドロスは「コリントス同盟の全権将軍」という資格でギリシア同盟軍を動員し、東方遠征に出発した。その「ギリシアの大義」はコリントス同盟の大義を意味していた。しかし、アレクサンドロスが東方遠征出発すると、現実にはコリント同盟諸国は大きな負担をかけられたことから不満が高まり、しばしばペルシアとむすんで反アレクサンドロスの動きを示したが、その生前には決定的な離反はできなかった。
アレクサンドロスの東方遠征に動員されたギリシアの同盟諸国民には、根強い反マケドニア感情が続き、アレクサンドロスもギリシア人部隊を信用せず、重用しない傾向が続いた。しかし、アレクサンドロスがペルシア帝国を滅亡させた後も帰還することなく、「アジアの王」として君臨し、自ら神格化を進めると、コリントス同盟をつうじてのギリシア支配は次第に空洞化が進んだ。その背景には、アレクサンドロス遠征中の留守を守るマケドニア王国内で、アレクサンドロスの母オリュンピアスと代理統治者である重臣アンティパトロスの両者が権力抗争を続け、混乱していたことが挙げられる。<森谷『同上書 p.239-240>
ついに前323年、アレクサンドロスが死んだことにより、ギリシアの反マケドニアの動きが強まり、ディアドコイ戦争が展開される中、前301年にコリント同盟は解消された。
マケドニアの覇権の確立
前338年、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ軍を破ったフィリッポス2世は、同年中に全ギリシアのポリスに呼びかけ、コリント(コリントス)で会議を開催、その議長としてポリス間の同盟を結成させた(コリント条約ともいう)。マケドニアの覇権を認めないスパルタは唯一参加しなかった。各ポリスは自由で独立した対等な権利が保障されたが、相互の抗争は一切禁止され、また政体の変更、私有財産・貸借関係の変更も禁止、海賊行為も禁止された。
(引用)条約の本文は残っていないが、同時代の政治弁論によると、それは諸ポリスの自由と自治を保障し、政体変革や負債の帳消し、土地の再分配を禁じ、海上交通の安全を保障し、違反者を敵と見なすことを定めていた。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.124>コリントス同盟の意義 ギリシアの各国は前386年の大王の和約以来、ペルシア王の主導のもとに繰り返し平和条約を締結していた。コリントス同盟もこれらの普遍的平和条約の枠組みを継承している。フィリッポスはこの条約の形式を利用し、各国代表からなる評議会を設置して、これを通じてギリシアを統制できるようにした。政体変革の禁止は各国に親マケドニア政権が続くよう狙ったものであり、負債の帳消しと土地の再分配の禁止は、フィリッポスに服従する上層市民の利益を擁護するものである。つまりこれらの条項は、加盟国の政治と社会の秩序を現状のまま固定したことを意味する。・・・こうして半世紀にわたってギリシア人が依拠してきた国際関係の体系を、そっくりギリシア支配の道具に造り替えたのである。彼の巧みな外交戦略、練達の手腕が発揮された好例と言えよう。<森谷『同上書 p.124による>
こうしてギリシアの軍事・外交の権限はすべてマケドニアのフィリッポス2世に握られ、事実上、前8世紀から続いたアテネ民主政の時代は終わりヘレニズム期に移行していくこととなる。ただし、形式的にはアテネなど諸ポリスは消滅したのではなく、独立国家として存続している。
アレクサンドロスと同盟
フィリッポス2世の狙いはペルシア遠征のため、後顧の憂いを無くすためにギリシア全体を抑えることであったので、早速第1回同盟会議を開催し、ペルシア遠征を決定したが、前336年暗殺されたため実行は子のアレクサンドロスに託されることとなった。前335年には一時期に有力ポリスの一つだったテーベがマケドニアからの離反をはかり、兵を挙げたが、アレクサンドロスは一気にテーベを急襲して降伏させ、コリント同盟会議を開催してテーベの処遇を審議させ、徹底した破壊と領土の分配、住民を奴隷として売却することなどの苛酷な決定をしている。
前334年、アレクサンドロスは「コリントス同盟の全権将軍」という資格でギリシア同盟軍を動員し、東方遠征に出発した。その「ギリシアの大義」はコリントス同盟の大義を意味していた。しかし、アレクサンドロスが東方遠征出発すると、現実にはコリント同盟諸国は大きな負担をかけられたことから不満が高まり、しばしばペルシアとむすんで反アレクサンドロスの動きを示したが、その生前には決定的な離反はできなかった。
コリントス同盟の空洞化
ギリシア諸国のうち唯一、マケドニアの覇権を認めなかったスパルタは、コリントス同盟にも加盟せず「光栄ある孤立」を守った。アレクサンドロスが東方遠征に出発したため、マケドニアもスパルタ攻撃はできなかった。しかし、その圧力を取り除こうとしたスパルタ王アギスは前331年に反マケドニアの挙兵に踏みきり、ペルシアの支援を受ける一方でアテネにも同調を求めた。しかしアテネはコリントス同盟から離脱することは避け、孤立したアギスの反乱は前330年、アレクサンドロスの代理統治者アンティパトロスによって鎮圧され、その後しばらくはギリシアでの反マケドニアの動きはなかった。アレクサンドロスの東方遠征に動員されたギリシアの同盟諸国民には、根強い反マケドニア感情が続き、アレクサンドロスもギリシア人部隊を信用せず、重用しない傾向が続いた。しかし、アレクサンドロスがペルシア帝国を滅亡させた後も帰還することなく、「アジアの王」として君臨し、自ら神格化を進めると、コリントス同盟をつうじてのギリシア支配は次第に空洞化が進んだ。その背景には、アレクサンドロス遠征中の留守を守るマケドニア王国内で、アレクサンドロスの母オリュンピアスと代理統治者である重臣アンティパトロスの両者が権力抗争を続け、混乱していたことが挙げられる。<森谷『同上書 p.239-240>
ついに前323年、アレクサンドロスが死んだことにより、ギリシアの反マケドニアの動きが強まり、ディアドコイ戦争が展開される中、前301年にコリント同盟は解消された。