デルフォイ(デルフィ,デルポイ)
ギリシア中部にある聖域。アポロン神殿の巫女による神託は古代ギリシアの各ポリスで重視され、共通して従うこととされた。
デルフォイ(デルフィ)は、ギリシア中部のにある聖域。アポロン神殿があり、神殿の巫女の口をかりて伝えられる神託(神の預言)は、すべてのギリシア人(ヘレネス)にとって真実のものと尊ばれ、人々の運命とポリスの命運を左右するものとされた。そのため、殖民の可否や戦争など、ポリスの重要な決定はこの神託によってなさるようになった。
アポロン神の神託
デルフォイでのアポロン神の神託は、前590年から始まり、特にギリシア人の植民活動が始まると、植民の前にデルフォイの神託をうかがうことが慣行となり、そのため植民に関する情報センターなような役割を持つようになった。この神域の運営は、周辺の部族の隣保同盟があたっていたが、多数の奉納物が富となっていたので、時にその管理権をめぐってポリスが争うこともあった。現在もアポロン神殿をはじめとする遺跡が多数残され、隣には博物館が建設されている。<桜井万里子『ギリシアとローマ』1997 世界の歴史5 中央公論新社 p.59~>「汝自身を知れ」
デルフォイのアポロン神殿の入口には、「汝自身を知れ」という有名な格言が掲げられていた。また、「分を越えるなかれ(過重なことを求めてはいけない)」と「無理な願いはしてはいけない」といった意味の言葉も掲げられていたという。タレスやソロンなどの七賢人として知られる知者たちは、「ともに相会してデルポイの神殿におもむき、かの万人の口に膾炙している『汝みずからを知れ』『分を越えるなかれ』という句を書きしるし、もってこれを彼らの知恵の初物(はつもの、捧げ物の意味)としてアポロンに奉納している」<プラトン『プロタゴラス』岩波文庫 p.107>デルフォイの神託と七賢人
前5世紀の後半、アテネで活動していたソクラテスは、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の真理に至ったとされている。真理の探究にもデルフォイの神託が用いられたことは、それ以前にも例があった。(引用)ソクラテスの晩年から数えて、およそ二百年の昔に、七賢人の間で黄金の鼎を譲り合ったという、有名な話がある。一人の青年がミレトスの漁夫から、魚を一網買い取る約束をして、さて網を引き上げてみると、中から黄金の三脚鼎が出てきたというのである。そしてその所有について、物言いがつき、なかなか解決しなかったので、ついにこれをデルポイのアポロンの裁断にゆだねることになった。すると、その神託には、「智慧において万人に勝る第一人者」が、この鼎を取るべきであるという答が出たのである。そこでその品は、ミレトスの賢人タレスの許に届けられた。しかしタレスは、これを辞退して、他の賢人のところへもって行かせた。そしてそのようにして、その鼎は、譲り合いによって、七賢人の間を廻り、ついにソロンのところにもって来られることになった。するとソロンは、「神こそ智において第一の者である」と言って、これをデルポイの宮に送らせたというのである。<田中美知太郎『ソクラテス』1957 岩波新書 p.133-134>七賢人についてはタレースの項を参照。
デルフォイの神官プルタルコス
帝政ローマ時代に、ギリシア・ローマの様々な人物を比較して論じた『対比列伝』(英雄伝)で知られるプルタルコスは、ギリシア人であった。彼の頃は「デルフォイの神託」はすっかり衰えていたが、それを嘆いた彼は、自ら最高神官となって神託を復興させようとした。彼が「最後のギリシア人」と言われる所以である。<村川堅太郎ほか『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫 p.185>