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ガレー船

古代ローマで使用された軍用船から発達し、中世でも地中海で使用された、多数の漕ぎ手の漕ぐ櫂と補助的な帆によって進む船。

地中海世界のガレー船

ガレー船
ローマ海軍の軍船
 ガレー船は古代の地中海でよく用いられた船舶の一種で、櫂と補助翼で推進した。本来は galley が「船」を意味するが、日本では「ガレー船」と言い習わし、海上を漕ぎ手よって推進する(櫂と帆を併用する)船をさしている。
ギリシアとローマでのガレー船 古代ギリシアのアテネの海軍はサラミスの海戦でペルシア海軍を破った三段櫂船が有名だが、古代ローマでも同様な漕ぎ手を何層にも重ねて多くした船を大型ガレー船が現れた。帆は一本マストだけで、多くの漕ぎ手を必要としたので、遠洋航海には向かず、地中海内の沿岸航海に用いられていた。前31年のオクタウィアヌスの率いるローマ海軍とアントニウス・クレオパトラ連合軍が戦ったアクティウムの海戦は、それぞれ武装したガレー船で戦われた。
中世の地中海で活躍 ガレー船は中世に入ってからも地中海の東方貿易で盛んに用いられたが、櫂を上下に配置する大型ガレー船は次第に少なくなり、14世紀ごろからは船幅が広く安定したガレー船が作られるようになり、15世紀には特にヴェネツィアでガレー商船が盛んに作られた。その漕ぎ手は古代ギリシア以来、自由人であったが、労賃が高くついたので、中世末期からは戦争捕虜や囚人が漕ぎ手として使役されるようになった。

帆船の時代へ

 しかし、15世紀後半、大航海時代になると、ポルトガル・スペインでカラベル船といわれる帆船が用いられるようになり、さらに大型の帆船のカラック船ガレオン船易が出現し、遠洋航海術が発達すると、ガレー船は16世紀をピークとして、17世紀以降は少なくなった。1571年のオスマン帝国海軍とヴェネツィア・スペインなどの連合海軍が戦ったレパントの海戦は、ガレー船が実戦で重要な働きをした最もよく知られた海戦であった。
 軍用船としてのガレー船が用いられなくなった理由は、漕ぎ手を集めることが次第に難しくなったことと、海戦に大砲が用いられるようになると、漕ぎ手で一杯になってしまうガレー船では大砲を多く艦載できないことにあった。
 それでも地中海では徒刑囚を漕ぎ手とするガレー船が19世紀まで用いられていた。ジャン・マルテーユの『ガレー船徒刑囚の回想』は1757年に書かれたもので、フランスでプロテスタントだったことによって捕らえられた男の実話である。
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書籍案内

ジャン・マルテーユ
木崎喜代治訳
『ガレー船徒刑囚の回想』
岩波文庫